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第810話 Silver(6)
電話を切って、ふう、と深く息を吐いた。雑談ならともかく、宏樹と一対一で、こういった多少改まった話題で会話をするのは、少し緊張する。涼矢とのことを知られているせいもあるが、それだけではない。涼矢とつきあう以前から、その緊張はあった。その理由を長らく理解できないでいたが、最近少し分かってきた。おそらくは宏樹の「正しさ」だ。宏樹の言うことはいつも正しい。だが、ただひたすらに清廉潔白な聖人君子ということもない。たとえば上京するにあたって、コンドームを餞別としてプレゼントする程度には、清濁併せ持つ器の広さもある。その上での「正しさ」だ。
宏樹は自分にとって、ある意味、本当の父親である隆志以上に「父親的存在」だった気がする。もちろん会社で身を粉にして働いて、妻子を食べさせているのは隆志だし、感謝も尊敬もしている。しかし、「育児・教育は母親任せ」という父親でもあった。夏休みの家族旅行などには連れて行ってくれたが、典型的な「社畜」タイプの隆志は家族と過ごす時間も短く、日常的な中での関わりというものはあまりなくて、和樹は隆志に叱られた記憶も褒められた記憶もほとんどない。
だから、習い事も進学先も、宏樹を基準にして決めた。幼い頃はお兄ちゃんと同じがいいとせがみ、大きくなってからは兄貴と同じことはやりたくない、と主張した。
何でもよく出来る兄は、尊敬の対象であり、目の上のこぶでもあった。
その兄が、「良い仕事」と言い、「目指すなら応援する」と言う、教師という仕事。
――そう言えば明生も、俺が高校教師になるならその高校に入る、なんて言ってくれたな。
――涼矢だって、軽はずみなことは言わない奴だからはっきりとは言わないけど、向いてるって思ってるっぽいし。
明生をはじめとした、塾の生徒たちの顔が思い浮かぶ。それから久家や早坂の顔も。
――一度、ちゃんと相談してみようかなあ。
そんなことをぼんやりと考えた。
翌日、和樹はサークルの部室で学祭準備に取り組んでいた。去年、ほんの少しだけ手伝ったパンフレットの郵送や、当日、学外から来る人向けの案内板の制作といった細々とした作業が続く。
何枚も紙を扱ううちに、指先を紙で切った。それにすぐさま気付き、自分のバッグから絆創膏を出してきたのは彩乃だ。右手の指先だったので、自分ではうまく貼れない。彩乃はそれもすぐ察して、貼るところまでやってくれた。
「ありがと。」
「どういたしまして。」
「バンソーコ、持ち歩いてんだ。」
「うん、私、しょっちゅう怪我するの。」
彩乃の絆創膏はキャラものなどではなく、ごく普通の、ベージュのものだ。しかもそれを、箱ごとバッグに放り込んでいるのを意外に感じる。
「しょっちゅうって、料理する時とか?」
「ううん、なんでもない時よ。電柱にぶつかったり、ちょっとした段差でコケたり、そんなことがよくあるんだ。注意力散漫なんだって姉たちに言われる。だからね、料理も包丁や火は使うなって。」彩乃は自分で言って自分で笑う。
「それじゃ料理できないだろ。」
「そう、できない。都倉くんは自炊してるの?」
「まぁ、ちょっとはね。チャーハンとか野菜炒めとか、そのレベルだけど。」
「元々できた?」
「いや、あんまり。一人暮らしで、仕方なく。」
彩乃は和樹の言葉にも笑う。「私もきっと、切羽詰まればやれると思ってる。……たぶん。」
「鈴木も苦労するなあ。」
「あら、なんで鈴木くんが苦労するのよ。それが嫌なら自分が作れるようになればいいだけよ。……あ、そう言えば去年都倉くんがバーベキューに連れてきてた人、料理すごかったね。」
突然振られた涼矢の話題。和樹は内心驚きつつも、できるだけ平静を装った。「ああ、あいつは料理が趣味だから。」
「普段から料理してる人の手際だなあって思って見てた。ミヤちゃんもすごかったけど。」
和樹は涼矢と並んで料理をしていた宮脇の姿を、昨日のことのように簡単に思い出せた。涼矢を大学のサークル仲間に引き合わせるだけでも不安で一杯だった。その上、あの一風変わったキャラクターの宮脇と来れば、何が起こるかまるで予想がつかなかった。当日はあえてそちらを見ないようにしていたけれど、恐々盗み見た光景は、あの涼矢が談笑しているという意外なものだった。
「特に、あの、おにぎり。」言いながら、涙を浮かべるほどに思い出し笑いをしている彩乃だ。バーベキューの終盤では、宮脇が恐るべきスピードで大量のおにぎりを作り、それを涼矢が焼きおにぎりにしていた。
「あれな。すごかったよな。」和樹も笑う。「あのスピードは、被災地に炊き出しのボランティア行って身に着けたらしいよ。」
「えっ、そうなの?」彩乃が目を丸くする。
「うん。涼矢が……バーベキューの時の俺の友達が、そう聞いたって。そうだ、ミヤちゃんのサークル、今年はなんかやるの?」
「やるみたいよ、ええと。」彩乃はしゃべりながらも封入作業を続けていて、ちょうど手にしていたパンフレットをめくり、あるページを指で押さえた。「ほら、これ。」
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