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第820話 Silver(16)
「あ?」和樹の眉間に皺が寄る。
そんな顔になったのは、聞き取れなかったせいでも言葉の意味が分からなかったせいでもないが、渡辺は平然と「彼氏との、そういうこと。」などと説明した。
「そういうの聞いちゃう?」
「聞いちゃう聞いちゃう。だって、すげえらしいじゃん。」
「何がだよ。」
「だから、男同士の、そういうの。」
「おまえは女が好きなんだろ。」
「都倉だって元はそうだろ。」
「今だって女の子は好きだよ。浮気はしないけど。」
「それってつまり、浮気の必要もないぐらい満足してるという。」
和樹はしかめ面を通り越して、苦笑いをしてしまう。その後には、ふう、と溜息をついた。「選択肢を与えてやる。ひとつは、そういう下世話な話はもう一切しないと約束して、この話題は終了。もうひとつは、俺のすんげえのろけ話を俺が満足するまでしっかり嫌がらずに聞く。そしたら、ちょっとぐらい教えてやってもいい。どっちがいい?」
「のろけ話。」即答だった。
「男同士のだぞ?」
「いいのいいの、俺は今、愛にめっちゃ飢えてんの。都倉様の幸せな話を聞かせてくださいよ。」渡辺はごろりと横になり、今しがたまで尻の下に敷いていた座布団を二つ折にして、抱き枕のようにしがみついた。「さあ、どうぞ。」
「ホントは俺の不幸話が聞きたいくせに。」和樹は呆れた声で言う。
「どっちでもいいんだよ、俺はおまえと田崎氏の話が聞きたい。」
「なんだよ、それ。」
「俺だけが知ってるという優越感。」
「弱み握ったつもりか。」
「違いますよ、都倉とはなんでも打ち明け合って、心の友になりたいのですよ、僕は。」芝居がかった言い方はしているものの、意外と本心かもしれない、と和樹は思った。それは自分の希望的観測に過ぎない可能性もあるけれど。
涼矢の話を誰かに言いたい。そんな気持ちと、実際にはそう簡単に言えない逡巡。特に大学の友人知人に対しては、その葛藤をことあるごとに感じている。気兼ねなく言える相手が欲しい時があるのは事実だ。
そう思いつつ、素直にそうとは言えずに「それが人の話を聞く態度かよ。」と、寝そべる渡辺に言う。
「都倉も適当にリラックスして。布団出してやろか?」
そう言えばこの部屋にはベッドはなく、押入れがある。
「いいよ、んなもん。」とは言え、自分だけが座っているのも妙な気がして、和樹も横になる。「けど、宣言してからのろけるってのも、変な感じ。」
「知らんわ、おまえが言い出したんだろ。俺はのろけ話でも下ネタでもどんと来いだ。」
「下ネタなんか言わねえっつの。」
「え、のろけを聞いたら下ネタ提供してくれるんじゃないの。」
「美しい愛の営みだっつの。」
「は、何言ってんだか。」
「下ネタっつったら、前につきあった女の子、年上で。」
「おお、いいねいいね。」
「その子とは、セックスしかしなかった。」
「おい、美しい愛の営みはどうした。」
「その時は愛の営みだと思ってたよ。いや、今でもそう思ってるけど、あん時はなあ、我ながらタフだったな。」
「何やったんだよ。」渡辺が目を輝かせる。
「やったこと自体は、まあ、普通のエッチだよ。ただ、ほぼ一週間、朝から晩までそればっか。夏休みかなんかだったっけかな、暇で、彼女の部屋に入り浸って。」
「うっわ、現実にそういうことできる奴っているんだ。」
「でも、後悔もしてるよ。嫌がらないのをいいことにそんな風に扱って。結局一週間で愛想尽かされたんだけど、当たり前だよな。」
「当たり前だな。」
「最初は確かに向こうもそのつもりだったと思うけど……そればっかりになっていって、途中からは嫌だったんだろう。でも、気が付かなかった。叩き出されるまで、嫌だって言わなかったから。俺、単純だからさ、好きだから好きって言うし、嫌なら嫌だって言うもんだと思ってて。」
「それ、単純つうか、結構ひどいぞ。ああ、どうしてこんな野郎がそんな素敵な経験ができて、俺には相手すらできないんでしょう、神様。」渡辺は胸の前で指を組み、祈りを捧げる振りをした。
「本当だよ。」和樹は笑う。「本当にそう思う。あの頃の自分は、本当に馬鹿で。」
ふざけていた渡辺が、ふと真剣な眼差しになる。「仕方ないよ。高校生なんてさ、馬鹿だろ、みんな。隙あらばスケベなこと考えてるし。あ、俺の場合、それは今もだけど。」
「俺もだよ。でも、ちょっとは相手のこと考えられるようになった、かな。」
「その相手ってのは、あの、ガタイのいい男なわけだろ? それがダメってわけじゃないけど、あの彼にそんな気遣いできるなら、もうちょっと女子に優しくできなかったもんかね。」
「優しくしてたつもりなんだけどね。俺、女性には優しくってのがモットーだから。」
「全然優しくねえじゃん。」
「そうなんだよ。」和樹は大の字になり、天井を見上げた。そこにはただ天井板が見えるばかりで、ロックバンドのポスターなどはない。でも、その天井板の一部が、木目の出方の加減でムンクの「叫び」みたいにも見えて、涼矢がポスターと目が合うのが苦手だと言っていたことを思い出した。「あいつは基本、女の子相手でも不愛想でさ。だから俺、女の子にはもっと優しくするもんだ、なんて説教垂れたこともある。けど、本当に優しいのはあいつのほうなんだよな。女の子相手に限らず、誰に対しても、あいつのほうが誠実で優しい。」
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