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第16話 待ち人来る(5)
――え? 今なんて?
「なんでもない。」
――で、プラグはともかく、ヘッドセットは使ってくれると思ってていいのかな?
それもあった。アナルプラグの衝撃で忘れかけていたが。「使うかもな。料理中とかさ、手が離せない時に便利そうだから、そういう時にな。」
――和樹がそんな凝った料理するの? 両手使って作る料理って……ハンバーグのたねをこねたりするわけ?
そんなことはありえないと言わんばかりに、半笑いで涼矢に言われて、和樹はムッとした。
「これからするんだよ。あとジョギング中とか……。」
――ジョギング……。
「これからするんだよ!」
――ははっ。
「笑うなよ。」
――うん、好きに使って。でも気が向いた時には……。
「向かねえから。」
――なんだ、これで和樹ご期待のテレホンセックスもやりやすいと思ったのに。俺も持ってるし。
「……マジ?」
――うん、俺は前から持ってた。パソコン作業しながら通話する時に使ってた。でも、さっきの和樹の、料理中っていうのは思いつかなかったな。今度から俺もそうしよ。
涼矢の趣味は料理のほかにもCGを描く、というのもある。パソコン作業とはその作業かもしれないし、あるいは講義のレポートなどをパソコンを使って書くこともあるのかもしれなかった。だが、今はそこが問題なのではない。
「……おまえも使うんなら……いいよ。」
――ん?
「一緒に使うんならいいっつってんの。」
――プラグは和樹の分しかないけど。
「そっちじゃねえ、ヘッドセットのほう!」
――ゲンキンだな。
「つか、スカイプで良くない?」
――やだ。
「なんで。」
――恥ずかしい。
「……おまえの恥ずかしい基準が分かんねえよ。」
――声だけのほうがエロいし。
「ふうん。そんなもんかね。」
――あの後、和樹の声で何回俺が抜いたと
和樹が遮る。
「やめろ。そしてデータを削除しろ。」
――会った時に消すよ。
「絶対だぞ。」
その日は、不貞寝するように、何もしないでそのまま寝た。
翌朝、と言っても10時近かったが、テーブルの上に置いたままのそれを見て、悪夢ではないことを思い知った。
それを視野に入れたくないのと、シリアルもパンも切らしていて、炊飯から始めないことには食事にありつけないことを煩わしく思い、遅い朝食を取るために外に出た。
特に何が食べたいというのはないが、チェーン店でない喫茶店のモーニングサービスの看板を見つけて、入ってみた。モーニングセットは10時まで、と書いてあったからギリギリだ。和樹が入りしなに「モーニング、まだやってますか?」と尋ねると、「はい、大丈夫ですよ。」という落ち着いた声が返ってきた。
トーストにはジャムとバターが添えられていた。それに茹で卵とミニサラダもついている。それとコーヒーでしめて700円。和樹にとっては贅沢な金額だった。それでも、モーニングセットの中では一番安い。トーストではなくサンドイッチのセットや、茹で卵ではなくベーコンエッグがつくセットとなると、ほぼ1,000円だ。
だが、コーヒーはやはり本物の味がして美味しかった。通常メニューを見てみたら、基本のブレンドコーヒーは550円だった。そう考えると、この店にしてはこのモーニングセットは「お得」なのだろう。美味しいコーヒーを飲むと、涼矢を思い出す。涼矢の淹れるドリップコーヒーが和樹は大好きだ。自分ではインスタントしか淹れられない。かと言って缶コーヒーは独特の金属臭がして好きではないから、飲むとしたらもっぱらコンビニのコーヒーか、自分で淹れるコーヒーだが、毎回「涼矢のコーヒーが飲みたいな」と不満を感じながら飲むことになる。東京に来る時にはコーヒー用具一式を持参してくれと言ったことがあるが、涼矢はそれを覚えているだろうか。
会いたいな。涼矢に。
素直にそう思った。涼矢に会いたい。直接言葉を交わしたい。触れたい。抱きしめたい。体温を感じたい。
――抱かれたい。貫かれたい。
そう思った瞬間、ぶるっと身震いした。
「寒いですか? 少し温度上げましょうか。」カウンターの内側から、マスターらしき初老の男性が声をかけた。
「いえっ、大丈夫です。」
他人が見てもわかるぐらい震えたなら恥ずかしい。確かに朝から暑い日であり、店内の冷房はきつめに入っているようだが、震えたのは寒さのせいじゃない。
そんなに広い店ではなかった。和樹の座っているカウンター席は詰めて座って5人分。それと2人掛けのテーブル席が2卓、4人掛けが1卓。
和樹の席からはカウンター内の作業の様子が見える。今、マスターはテーブル席の客のためのコーヒーをドリップしていた。涼矢が欲しがっていた、長い注ぎ口のコーヒーケトルを使っている。
「なんか…ガラスの、フラスコみたいなやつで淹れるのもありますよね。お店だと。」和樹はマスターに何気なく話しかけた。
「サイフォン式ですね。一時期流行しましたが、最近減りましたね。あれは見た目が良くて演出としておもしろいし、抽出に時間がかかりませんから、数をこなすにはいいと思いますけど、うちは昔からドリップです。」
「ドリップのほうが美味しいんですか。」
「味は好みですから、サイフォンが悪いとは一概に言えませんがね。」暗にドリップのほうが美味しい、と言っているように聞こえる。涼矢もいつもドリップだ。この店のようにネルドリップではなくペーパーフィルターではあるが、同じように丁寧に淹れている姿を何度も見た。
「美味しいです、このコーヒー。」
「そうですか、ありがとうございます。」マスターはにっこりと笑った。
和樹が店を出る時には、マスターはドアのところまで見送りに出て、「ありがとうございました。また是非お越しください。」と深々と頭を下げた。自分の親より年上に見えるが、ダンディで格好いい大人だと思った。
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