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第20話 待ち人来る(9)
涼矢はうんともすんとも言わないが、立ち上がったところを見ると同意したのだろう。さっき置いたばかりのバッグを取ろうとしているのを見て、和樹が「最初ぐらいはごちそうしてやるよ。」と言った。
「あ。」涼矢がまた立ち止まる。
「今度は何だ。」
「出さなくちゃ。」涼矢はキャリーケースを開けて、更にその中から、何やら保冷バッグのようなものを出した。キャリーケースの半分はそれで埋まっているのではなかろうかと思えるほど、大きな保冷バッグ。「冷蔵庫、いい?」
「いいけど、何だよ。」
「なんか……いろいろ。」涼矢は密閉容器をいくつも出しては冷蔵庫に収納した。「冷凍できるものは冷凍のほうがいいかな。」和樹に問いかけているのかと思ったらそうでもないようで、勝手に冷凍室にも詰め始めた。
「……差し入れか?」
涼矢はコクリとうなずいた。なんだか、つきあう前を思い出す。口数が少なく、表情の硬かった頃の涼矢。
最後に溶けかかった保冷材を冷凍室に入れると、作業は完了したようだ。「うん、OK。」
「涼矢が作ったもの?」和樹は、今しがた涼矢が閉めたばかりの冷蔵庫を開け、容器をいくつかのぞく。「なんか茶色いもんが多いな。煮物的な。」
「和樹が、自分から進んで食べなさそうなもの。根菜の煮物とか。豆鯵の南蛮漬けとか。」
「良く分かんねえけど、サンキュ。」
やっと涼矢と目が合った。涼矢ははにかんだように笑った。これが、ちょっと前に、電話で俺にオナニーしろと迫ったり、いきなりアナルプラグを送りつけてきた奴とは思えない。
「じゃ、行くか。」和樹は涼矢の手を握った。
今度は、涼矢も和樹の手を握り返した。そして、さっきとは反対に、涼矢が和樹のその手を引き寄せて、キスしてきた。「やっと落ち着いた。和樹の顔がちゃんと見える。」
和樹は両手を涼矢の両頬に当てて、またキスをした。涼矢の手が和樹の背中に回る。和樹も両頬の手を涼矢の背中に移動させて、2人は固く抱き合った。夢中になってキスをした。
会いたかった。こうして、抱きしめたかった。キスしたかった。ずっと。何ヶ月も。
やっと和樹の予想した「熱烈なハグをして、キスの雨を降らせる」ことができた。
「……そろそろ終わり。このぐらいにしておかないと止まらない。続きはまた後でな。」和樹がそう言うと、涼矢は素直にうなずいた。
喫茶店のドアは、開けるとカランコロンとドアベルが鳴る。落ち着いた色合いの、木製のテーブルと椅子。壁も木目調だ。額装もされていない素描が何点か飾られているだけで、余計な装飾品はない。
「いらっしゃいませ。」ダンディなマスターの渋い声。12時少し前、先客が3組いてテーブル席は埋まっていた。「カウンターでよろしいですか?」
和樹が涼矢を見ると、涼矢は黙ってうなずいた。「はい、カウンターで。」と答えたのは和樹だ。
「お食事は、休日は単品メニューのみとなります。」平日であれば、おそらくランチセットがあるのだろう。
「コーヒーだけでもいいけど。」と涼矢が言ったのは、和樹の懐具合を心配してのことに違いなかった。和樹は遠慮するなと言って、自分がまずエビグラタンとアイスコーヒーをオーダーした。それを聞いて、涼矢はクラブハウスサンドイッチとブレンドコーヒーを頼んだ。涼矢は飲み物は食後に、と付け加えた。
「常連?」と涼矢が言った。
「まさか。今日が2度目だよ。この間初めて、モーニングセットを。その時のコーヒーが、すごく美味しくてさ。」
和樹の言葉が聞こえたらしく、マスターがにっこり微笑んだ。マスターは優雅にゆったり動いているように見えるが、その手は休みなく動いていた。そんなところも、涼矢に似ている、と和樹は思った。
「ああいうのだろ。おまえが欲しがってたの。」和樹はコーヒーケトルを指した。
「そう。よく覚えてたね。まだ買ってない。」
「ケトルですか?」とマスターが涼矢に話しかけた。
「ええ。」
「コーヒー、自分で淹れるの?」若干砕けた物言いに変わった。
「そうですね、たまに。」
「豆から?」
「余裕があれば挽くところから。でも、大体はお店で挽いてもらってます。」
「好みは?」
「ハワイコナが好きですけど、普段から飲むには値段が張るから、豆を買ってる店のオリジナルブレンドで。その店、店長のお勧めブレンドというのがあって、店主の気分で時々豆の種類が変わるんです。それがおもしろくて。好みだなと思ったら、どういうブレンドなのか聞いて、メモしておいたりして。まだ、自分の本当の好みが何なのか分からないから、勉強中ってところです。」
「ああ、そういう勉強は、楽しいよね。」そう話しながら、マスターはエビグラタンをオーブンに入れ、隣のトースターには食パンを入れた。それぞれに焼き目をつける間に、サンドイッチの具材と思われるチキンを削ぎ切りしはじめた。チキンは既に焼いたものが準備してあるようだ。1人で切り盛りしている店だから、時短のために食材の下ごしらえはあらかた済ませてあるのだろう。だが、業務用の出来合い食材を使っている様子はなかった。
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