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第842話 fall in love(1)

「俺のせいだな?」 「そうだよ。いきなりみんなの前で言うか? 普通。」 「普通が好きな俺なのにね。」和樹はふふっと笑って、涼矢に握られた手を口元に持っていく。それからその手の甲にキスをした。「でも、言いたかったんだ。」 「……怖くなかったのか?」自分は、言えなかった。初めての恋も二つめの恋も、相手に伝えることはおろか、誰に相談することもできなかった。友達との雑談で好みのタイプを聞かれれば身構えて嘘を重ねるしかなかった。 「あの時は怖くなかった。」 「あの時は?」は、を強調して聞き返す。 「うん。」和樹は涼矢の手を強く握り返した。「俺の中ではもう、なんつうか、一山超えちゃってたからさ。」軽い口調でそう言った。  涼矢は和樹の横顔を見る。和樹は続きを促すようなその視線に気づいていた。 「おまえに告られた時ね、おまえがめちゃくちゃ緊張してて。そりゃあ、告白なんて誰でも緊張するだろうけど、それだけじゃなくて、正直、怖いっつか、重いっつか。」 「……ごめん。」 「いやいやいや、それが嫌だったわけじゃない。真剣に好きだって言われて嫌なわけないだろ。ただ、どうしていいか分かんなかった。今だから言うけど、どう断ればおまえを傷つけないで済むんだろうって、そういうことしか考えてなかった。兄貴に言われるまで一回だけでもデートするなんて思いつかなかったし、そのデートで、その、好きんなるとか、思ってなかったし。」 「それ、本当?」 「それってどれ。」 「一回目のデートで、のくだり。」  和樹の顔が一気に赤くなる。「何度も言ってるだろ。明生たちの前でも言ったじゃないかよ。初めて二人でああいう風に過ごして、そしたらおまえ、俺が思ってた田崎涼矢と全然違ってて、だから。」 「……じゃあ、間違ってなかったんだ。」 「え?」 「もし俺が哲みたいに最初からゲイだってオープンにしてて、おまえに好きだってグイグイ攻めてくタイプだったら、好きになってくれた?」 「いや、それは……。」もしそうだったら、決して好きにはならなかっただろうと和樹は思う。かつての奏多のように「自分とは違う世界の人間」として、遠ざけていたに違いない。 「だったら、俺のそれまでの努力も無駄じゃなかったってことだろ?」  和樹にも、他の友達にも、親にも素っ気なくしていた。常に他人とは距離を取るようにして、誰にも本心を言わなかった。確かに自分で選んでそういう態度を取っていたのだけれど、でも、決して「そうしたかった」わけじゃない。苦しかったし、淋しかった。ただそれ以上に差別意識や嫌悪感をぶつけられたくはなかった故に、仕方なくそうしていたまでのことだ。でも、それが結果として和樹の関心を引き寄せたのなら、報われる。 「恋とはするものではなくて落ちるもの。」と和樹は言った。 「は? 何、突然。」 「って、前に読んだ本に出てきた。なんだったかな、タイトル。ま、いいや、とにかく、そういうものなんだよ、恋ってやつは。」 「そういや、英語でも fall in love って言うもんなぁ。万国共通の感覚なのかな。」 「ああそれね、逆らしいよ。そっちの英語表現がまずあって、それを翻訳したものが日本語に定着したらしい。」 「へえ。」 「由来なんかどうでもいいんだよ。」 「初デートで恋に落ちたの? 和樹は。俺に対して。」嬉しそうに涼矢が言う。 「そうだっつってんだろ。」 「へえ。」涼矢はもう一度そう言った。 「へえへえうるせえな。」照れくささを押し隠すような乱暴な口調で和樹はそう言い、肘で涼矢の脇腹をつついた。 「俺はずっと落ちっぱなしだなあ。」涼矢が手を伸ばし、和樹の頭に触れる。それから前髪と言うほど長くはない髪を少しかきあげるようにして、その額にキスをした。  だから和樹の目の前には涼矢の鎖骨があり、その下には胸板があった。現役選手の頃に比べればその大胸筋はだいぶ薄くなったが、それでも一般的な同年齢の男子よりはがっしりとしているだろう。腰回りは元々細いがやはり以前ほど筋張ってはいない。腹筋はそれなりに筋トレを続けている和樹のほうがしっかりと割れている。自分も涼矢もどう見ても男の身体だ、と再認識しては不思議な感覚にとらわれる。そんな和樹は更にそれを確かめるべく、涼矢に抱きついた。涼矢はそれを意外に思うこともなく、抱き返す。 「好き。」和樹は涼矢の胸に額をこすりつけながら言った。  涼矢は和樹の顔を上げさせて、その唇にキスをした。「ありがとう、好きになってくれて。」 「前にも聞いたよ、それ。」 「何度でも言うよ。」 「おまえって時々、そうだよな。」 「そう、とは?」 「なんでもねえよ。」涼矢は時々、やたらと甘い。甘えてくる時も甘やかす時もあるけれど、どっちにしろ、こっちが気恥ずかしくなるほど、甘い。 「でも、いくら和樹が俺のこと好きって言ってくれても、俺のほうが好きだからね?」  そう続ける涼矢の言葉に、和樹は、ほらな、やっぱりと心の中で呟いた。

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