850 / 1020

第850話 fall in love(9)

「めんどくさい話はメシの後にしようぜ。」  長い沈黙の後で、和樹が言った。涼矢は頷き、二人は大量の餃子を片付けていった。 「食ったな。」やがて空になったホットプレートを見て、涼矢が言う。 「すげえ満腹。」和樹はお腹を撫でながら言う。「……髪、どう?」  餃子を二人で作る時、和樹は涼矢の髪をくくってやった。とりたてて凝ったことはしていない。低めの位置でひとつに束ねただけだ。 「うん。バサバサ落ちてこなくていい。」 「でも、前髪は相変わらずだな。ピン留めも買っておけばよかった。」 「帰ったら切るよ。」 「俺、切ってやろうか?」 「和樹が?」涼矢は疑り深い表情で和樹を見る。 「前髪切るぐらいできるよ。」  涼矢は改めてしげしげと和樹の頭を見る。その髪は別に自分で切ったわけではないだろうが、高校時代は自分でバリカンを使っていたと言うし、ヘアアレンジは確かに上手だ。餃子を包むのだって難なくできて、案外と器用なのも分かった。 「じゃあ、お願いしようかな。ハサミあるの?」 「うん。」 「専用の?」 「いや、普通の文房具の。」 「いいの?」 「いいよ、100均のだし。」  そう聞いて自分の髪のほうが心配になる涼矢だったが、そこは黙っておくことにした。 「んじゃ、風呂場で。」と言うや、和樹は立ち上がる。 「え、今?」 「今じゃだめ?」 「いいけど。」  風呂椅子に座る。背後に立つ和樹が、耳元でカシャカシャとハサミを鳴らす。不思議な気がした。髪を切ると言えばずっと美容院だった。佐江子は不器用だし、自分でやるのは面倒だった。中高生の頃は水泳部の決まりで丸坊主に近い短髪にしていて、しょっちゅう刈り上げなければならなかった。女性の利用客の多い美容院で、そんな髪型をオーダーする客は滅多にいなかったはずだが、幼い頃から佐江子に連れられて行っていた顔見知りの店だったから、人目はあまり気にならなかった。  男は美容室じゃなくて床屋だろう、と言ってきたのは柳瀬だ。髭剃りもしてくれるぞ、と髭など生えてもいない顎を撫でながら言っていた。柳瀬のほうが背が高く、涼矢は声変わりもまだだったから、中学に入って間もない頃だろうか。……いや、もっと前だ。確かその会話の後、渉先生に「先生は床屋で髪を切るか、髭剃りもしてもらうのか」と質問した記憶がある。その答えがなんだったのかは思い出せない。 ――あんなに好きだったのに、忘れるものなんだな。  涼矢は思う。あんなに好き、と言っても所詮はこどもらしい思慕ではあったけれど、でも、こどもだからこそ、全力で好きだった。 「目、つぶって。」  つらつらと考え事をしている時に和樹にそう言われて、一瞬キスでもされるのかと勘違いしてしまう。前髪の毛先を切るからつぶれと言われているのだと理解して、なんだか恥ずかしくなる。 「なに、どうしたの? 変な顔して。」 「別に。」 「変なの。……なあ、下ろした時にこのへんに来るぐらいでいい? これでも長めだと思うけど。」  和樹は涼矢の眉下のあたりをつんつんとつついた。 「おまえの好きな長さでいいよ。」 「坊主にしてやろっかな。」和樹はニヤニヤする。 「いいよ、和樹がそれがいいって言うなら。お任せします。」涼矢は目をつぶる。 「バーカ。」と笑いながら、和樹は涼矢の髪をひとふさ指の間に挟みこむようにして、はみ出た部分を切り落とした。  5センチ以上は切ったのだろうか。耳にかけられるほど伸びていた前髪はだいぶすっきりとした。前髪だけ短いのもおかしいからついでに、と和樹は全体にもハサミを入れ、器用に梳いた。  それでもまだ結べる長さは保ったところで、ハサミを置く。 「いかがでしょう。」和樹は浴室の鏡を指差した。 「お、すっきり。」  和樹は、切った髪が散らばらないようにと、カバー代わりに涼矢に被せていたゴミ収集袋をそっと外して脇に除けると、改めて鏡の中の涼矢を見た。「顔色が明るく見える。」 「そうだね。」 「おまえ元々色白だしな、このぐらい顔出したほうがいいよ。」 「言うほど色白かなあ。」 「だろ、ほら。」和樹は涼矢の頬に自分の頬を寄せ、鏡に二人の顔が映るようにした。 「おまえが色黒なんだろ。」 「地黒なんだよね。水泳辞めたら白くなるかと思ったのに、あんまり変わんなかった。」 「外にいる時間が長いんじゃない?」 「おまえは引きこもりだもんな?」 「引きこもりではない。」どちらかと言えばインドア派ではあるけれど、引きこもってはいない。毎日大学にも行っている。……大学ぐらいしか行っていないが。 「それもそっか。俺が呼べば、東京まですっ飛んできてくれるんだから。」  頬を寄せたまま、和樹が横目で涼矢を見てニヤリと笑っている。涼矢はそれを鏡越しに見た。 「……俺のわがままなのかな。」涼矢は呟く。 「わがまま? 何が?」涼矢がわがままを言ったことなどない、と和樹は思った。もっと言えばいいのにと思うほどだ。  涼矢は鏡越しではなく、和樹の顔を見た。「上京しても、一緒には住まないっていうやつ。」  和樹は戸惑う。涼矢の言葉の真意が分からなかった。「でも、あれだろ。勉強に集中できないんだろ。」

ともだちにシェアしよう!