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第40話 GINGER ALE(17)

 涼矢の予想していた通り、東京都美術館も国立西洋美術館も入場待ちの行列が多少できてはいたが、待ったのは10分もなく、中に入ってしまえばそこまでの混雑ではなかった。チケット代の負担について、2人はまたもどちらが払うかを言いあうことになったが、涼矢が払うことで決着した。その代わりに、滞在中の食費は外食を含め全額和樹がもつというところで折り合いがついた。 「和樹の貴重なバイト代を遊興費に使わせるのはしのびない。」と、東京都美術館を見終えて、すぐ近くの西洋美術館に移動しながら、涼矢が言った。 「そのためにバイトしたんだからいいのに。」と和樹は言う。 「俺なんか親のすねかじりだからね。」 「バイトしないの? そんな暇ない?」 「金には困ってないけど、もう少ししたら社会経験として働いてみようとは思ってる。」 「言ってみてえ、金には困ってないって。」 「親の金だけどね。」 「それ言ったら、俺の仕送りのほうがよっぽど親に迷惑かけてる。自宅通いの涼矢のほうが親孝行。俺の大学、学費も高いしさ。あ、N大も私立だもんな、高いか。まあ、涼矢ん家は学費の負担なんて気にならないだろうけど。」 「……。」涼矢が口ごもった。 「ん? 何か?」 「今の流れで言うのは非常に言いにくいんだけどね。」 「何が?」 「俺、奨学生。」 「奨学金、借りてるの? 金持ちなのに?」 「じゃなくて、もらいっぱなしのやつ。成績優秀者なので。」 「……ほえー。」 「なんつう声を出すんだよ。」 「おまえ天才だな。」 「だからね、それもあって、お勉強がんばらないといけないってわけ。給費生になれるかどうかは、1年ごとの成績で見直されるから。」 「それはそれは実に親孝行。」 「親孝行っつうか、親父の出身校の国立落ちたから、せめてもの意地だよね。」 「でも別に、それで嫌味言われたりはしないんだろ。」涼矢の父は涼矢を溺愛している、と聞いている。 「嫌味は言わないけど、同情と憐憫の目で見られたのがむかつく。入試の日の体調がイマイチだったんだろうとか言ってくるんだけど、俺、万全の体調で受けたっつうの。」 「お母さんは? そういうの気にしなさそうだけど。」 「司法試験に受かれば出身大学なんて関係ないから、って。フォローなのかプレッシャーかけてるのかわからん。」 「……ま、がんばれよ。応援してるよ。」  2人は西洋美術館の前に来た。「まだ大丈夫? 疲れてない? 俺、絵を見るのに時間かけるから、ペース合わせなくていいよ。それか、どっかでお茶でもして待っててくれてもいいし。」涼矢が一枚一枚を見るのに時間をかけるので、東京都美術館だけで2時間近く過ごしていた。 「全然大丈夫。絵がつまんない時は涼矢の顔見てるから。」実際、さっきの展示では、絵より涼矢の顔を眺める時間のほうが多かった和樹だった。そんなことをしているうちに、涼矢はしゃべっている時よりも絵を見ている時のほうが表情がくるくる変わることを発見した。  そうして2人でまた展示を見ることになった。今回は、和樹は自分のペースで、つまり早足で回り、途中に置いてあるソファで時間調整をしてみることにした。ぼんやりと他の客を見ている内に気が付いたことがあった。涼矢が和樹のいる展示室までたどりついたところで、和樹は涼矢に寄っていき、小声で聞いた。 「イヤホンしてる人たちは、何?」 「音声ガイド。絵の解説が聞ける。入口の所で貸出してただろ?」 「気がつかなかった。」 「借りたかった? でも、だいたいは絵の横についてる説明書きと大差ないよ。」 「へえ、そんなのがあるんだ。」 「飽きてきたなら、とっておきの音声ガイドでも貸してやろうか? イヤホンもあるよ。」涼矢がスマホをチラつかせた。 「ん?」和樹はしばらく意味が分からなかったが、じきに思い出して、顔色を変える。 「俺のお宝音声。」と涼矢はニヤニヤする。 「バッ…!」 「大声出すなよ、場所考えて。」 「てめ、消すって言ってたくせに。」小声の中にも怒りを込めて、和樹は言った。 「忘れてたんだよ。」 「消せ、今。」 「やだね。」涼矢はスマホを再びショルダーバッグに納める。「じゃ、俺は芸術鑑賞してくるから。」  再び展示物のほうへと歩き出す涼矢の後を、和樹は慌てて追った。フランドル派の宗教画を陶然とした表情で眺める涼矢を見て、どんな気持ちでキリスト像を見ているのかと問い詰めたくなるが、何も言えない。そこからは涼矢のペースに合わせて、しかしながらやはり大して興味も湧かないまま、絵画を見た。  やっと展示室のすべてを見終わり、ミュージアムショップを軽く冷やかして、2人は美術館を後にした。 「お疲れ様。お茶でも飲む? それとも、このまますぐ浅草? ああ、もう、こんな時間か。つきあわせて、悪かったな。腹減っただろ。」時刻は既に午後2時をまわっていた。 「謝るのはそこじゃない。」 「え?」 「消せよ、さっきの。」 「家に帰ったらね。」 「会った時に消すって言ってただろう。だいたい、隠し録りするのが信じらんねえ。」 「そうだね。」涼矢は薄笑いを浮かべた。「隠し録りは気分いいものではないよね。今度からはちゃんとおまえの同意を得てからにする。」 「同意なんかするか、馬鹿。」 「だったら消さない。こんな貴重な音源。」 「ふざけんなよ。」 「んー、じゃあさ、家帰って、和樹と一緒に一度だけこれ聞く。そしたら、その場で消す。」 「おまえ1人で聞けよ、馬鹿。」 「分かった、1人で聞く。そしたら消す。な?」  和樹はもうそれ以上この話題を長引かせたくなくて「分かった。」とだけ答えた。

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