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第41話 GINGER ALE(18)

 浅草はまた多くの人で賑わっていた。仲見世通りで食べ歩きしたい、などと電車の中では話していたが、実際に降り立ってみると、暑さと人混み、そして美術館を数時間歩いた疲労とで、その気力は初期段階で潰えた。 「先にどっかで休もう。なんか食おう。」と和樹が言った。涼矢も同意して、周辺の飲食店を何軒か物色した。 「やっぱり、天丼とか蕎麦とかかなあ、ここは。」と涼矢が言い、和樹が天丼がいいと言ったので、近くにあった天ぷら屋に入った。  間もなく2人の前に置かれた天丼には、立派な海老が載っていた。歯を立てるとサクッと小気味良い音がする。 「値段も高いけど、やっぱり美味いな。」と和樹が言うと、 「うん、美味い。」と涼矢も言った。「天ぷらは自分で作る気しない。絶対店のほうが美味いもんなぁ。」 「外国人、多いね。メニューも英語併記だった。」店内を見渡して、和樹が言う。 「日本語が聞こえてこねえよな。昼時でもないのに、結構混んでるし。」 「やっぱスシとテンプラは人気なんだね。」 「ああ、寿司も食べたいな。明日は寿司食べよ。」 「ちょ、食費は俺持ちなんだから、あまり贅沢言わないで。ここだって贅沢なんだから。」 「回転寿司でいいよ。」 「人生で1度しか行ったことない癖に。」美食家の父親により涼矢にとっての寿司は「回らない寿司」であり、涼矢が回転寿司を食べたのは高校の水泳部の顧問がごちそうしてくれた一度きりだと、以前聞いたことがあった。 「そんなことない。大学に入ってから2回目を経験した。」 「へえ、誰と行ったの。」 「例の友達。」 「おまえに言い寄ってきた奴か。名前なんての、そいつ。」 「(てつ)。」 「フルネーム教えろ。」 「……なんだっけな。浅井(あさい)……じゃなくて碓井(うすい)…?……哲也(てつや)? 哲史(てつし)? 哲郎(てつろう)? なんかそんな感じの名前だった気が。」 「名前知らないのかよ。」 「苦手なんだよ、人の名前覚えるの。」 「弁護士になったら、依頼人の名前、忘れないようにしろよ。」 「まったくだ。でも、都倉和樹は一度で覚えたからね。」 「自慢気に言うな。……で、そのテツは、おまえのことなんて呼んでるの。」 「涼矢とか、涼とか、かな。」 「却下。特に涼は絶対却下。」 「おまえが却下すんの?」 「だって……。」  和樹が涼矢を「涼矢」と呼び始めたのは、告白された後のことだ。それまではお互い「田崎」「都倉」と呼び合っていた。そして、「涼」という呼び方については、以前、涼矢がセックスの最中にそう呼ばれるのが刺激的だ、という意味の言葉を口走ったことがあった。「涼矢の矢すら言う余裕がない、切羽詰まった感じがいい」と。それを思うと、今は単なる友人とはいえ、一度は涼矢に交際を申し込んできたという男に、涼矢がそう呼ばれるのは我慢ならなかった。  それに、こいつはそのこと、何とも思わねえのかよ。思わねえんだろうな。呼び方なんて識別できればそれでいいって言ってたもんな。他人の名前も、自分の名前も、単なる記号なんだ、こいつにとっては。でも……俺は違うし。  黙り込む和樹に、涼矢が言った。「哲に、涼って呼ぶなって言っておくよ。いっそ苗字で呼べって言ったほうがいい?」 「……理由を聞かれたらどうする?」それは文字通りの問いかけでもあると同時に、涼矢があの時の会話を覚えてくれているかの確認でもあった。 「彼氏にしかそう呼ばれたくないからって言う。」淡々とそう答える涼矢に、和樹のほうが戸惑った。微妙な答えだった。今この場の雰囲気で、和樹が不愉快になっているのを察して言っているだけならば、「彼氏が嫌がるから」とでも言いそうなものだ。それを和樹のせいではなく、自分がそう呼ばれたくないのだという言い方をするのは、覚えているからこその配慮なのか、たまたまなのか、涼矢の生来の性格なのか、判別つかなかった。  和樹は回りくどい言い方はやめて、ダイレクトに「それって、覚えてて言ってる?」と聞いた。  すると、返ってきた答えもまた、「うん。俺が、コトの最中に涼って呼ばれるのがいいって言った話だろ?」とダイレクトなものだった。  なんだよ、覚えてるのかよ。そのことは少し嬉しく、少し恥ずかしくもあり、赤面したのは和樹のほうだった。周囲の客が、おそらくは日本語を解さない外国人観光客であることに感謝した。それと同時に、覚えていながらも、他の男から「涼」と呼ばれることに、今の今まで何の抵抗も感じなかったであろう涼矢に、軽い苛立ちを覚えた。 「でも、おまえ自身は、別に、気にならないんだろ? どう呼ばれても。涼でも。」 「まあね。でも、和樹に不愉快な思いをさせるのは俺としては不本意だし。……ただ、本当にそこまで気にするんだって、少しびっくりはしてる。あ、でも、最初の頃から、結構、呼び方にこだわってたもんな。部活でも、なんで自分だけが田崎って呼んでたんだとか言って。そういうの、俺にはない感覚なんで、気が回らなかった。」そんなことをしゃべりながら、涼矢は合間合間にししとうやイカの天ぷらを口に運んでいたが、そこまで言うと、いったん箸を置いた。「ごめん。」 「いや、別に、そこまで怒ってるわけじゃ……。」和樹は焦った。「涼矢……なら、いいよ。でも、やっぱ、涼はやだ。」 「うん。分かった。」

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