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第861話 すべて世は(5)

「え。嘘。」琴音の目が大きく見開く。 「正直、自分のことをゲイだと思ったことはないんだ。そいつ以前は女の子とつきあってたし、今でもセクシーな女性を見ればドキドキするし。でも、今一番好きで、大切にしてる人は、男なんだよ。」 「あ……そう、なん、ですか。」呆けたように琴音が言った。「あの、はい、いいと思います。全然。」 「ん、だからさ、どうしていいとか悪いとか、琴音ちゃんに判断されなくちゃならないのかなって思うんだよ。そういうところがさ、たぶん、ちょっと伝わってるんじゃないのかな。君を仲間外れにする人たちにも。……て言うか、その疎外感自体、琴音ちゃんが勝手にそう思ってるだけってことはないの?」 「都倉、それは言い過ぎなんじゃね? おまえも決めつけてるだろ、琴音ちゃんが悪いって。」 「いえ。」渡辺のフォローに、琴音は首を振った。「そうだったかもしれません。話すことはないとは言われたけど、無視されたわけでも、あっち行けとか言われたわけでもないですし。」 「えー、でもさ、空気ってあるよね、空気。歓迎されてないんだなあっての感じながらその場にいるのはキツイよね。」 「その空気ってやつがさ。」和樹の脳裏には涼矢の顔が浮かぶ。水族館で奏多に否定された時のこと。その後語ってくれた初恋の人の自死。この世から消えたいと思ったという中学生の夏の記憶。生まれてきた子に名前をもらっていいかと言うマスターの前で流した涙。「そいつのせいでもっともっとキツイ思いをしてる奴らがいてさ。そういう人のためのサークルなんじゃないの、ミヤちゃんや琴音ちゃんがやろうとしてるのは。」  琴音は和樹の顔を凝視する。それからうつむいて、両の拳をぎゅっと握りしめた。「そう……です。」 「ごめん、責めてるんじゃないんだ。」和樹はようやく少しだけ表情を緩ませる。「こんなこと言ってたって、俺は何もしてない。何かしようとしている分、ミヤちゃんや琴音ちゃんは偉いと思う。でもさ。」 「はい、分かります。分かったと思います。あれ、でも、分かってないのかな。」琴音は混乱しているようで、独り言のようにぶつぶつと言った。 「どうすれば正しいかなんて俺にも分からない。ただ、俺の彼氏ってのは、そういうことでたくさん傷ついてきた人で、俺はもうあいつを傷つけたくないし、傷つける奴は許さないって思ってる。でも、あいつを一番傷つけてきたのは、たぶん、特定の誰かじゃなくて、そういう空気だったんじゃないかなって思う。その空気のせいで、俺も、このこと……男とつきあってるってことあまり人に言えてない。」  琴音がおずおずと顔を上げた。「ごめんなさい、私のせいで、言わせてしまって。」 「嘘、ってさ。嘘って言っただろ、今。」和樹は琴音に言い聞かせるように言う。「俺に彼氏いるって言ったら、最初の返事がそれだった。琴音ちゃんは俺よりよっぽどLGBTのことだって詳しいだろうし、当事者の知り合いも多いと思う。それでも、とっさに出る言葉がそれで。学校でもどこでも、仲間内ですらそんなだったらさ、壁作らずにどうやって身を守るの。そういう想像をしてほしいって思った。少なくとも、これからもそういう活動していこうって思ってるんならさ。」 「はい。」 「でも、その壁をなくしてくれる人も、最初から壁なんかないって人もいるよ。琴音ちゃんにもそうなってほしいっつうかさ。ま、これは俺の個人的希望だけど。」 「……はい。」 「あ、あとさあ。」渡辺が言い出した。「壁は壁として、お互いの壁は尊重するってのもアリじゃない? 誰だって全部をフルオープンにはしないだろ? 都倉にとってすげえ大事なものが壁の向こうにあって、でも都倉はそれが何かを俺には言いたくないとしても、俺は都倉を大事にできるぞ。」 「なんだよ、おまえ俺のことそんなに好きかよ。」和樹は笑う。 「おう、好きだ。」渡辺はふざけて和樹に向けて投げキッスの真似事をする。 「でも、その代わり、渡辺の壁も大事にしてくれってことだろ?」 「そうそう、それ。」 「うん、そうだな。それはあるな。つまりさ、言いたい時にはちゃんと聞いてくれて、黙っていたい時にはそっとしておいてくれる。そういうの、いいよな。」 「そういう彼女欲しい。」 「まーたおまえはすぐそういう話に持っていくし。」  和樹と渡辺の掛け合いに琴音もようやく笑顔を見せる。「渡辺先輩、彼女募集中なんですか?」 「年中無休で募集中。あ、琴音ちゃんもしかしてもしかする? 俺はオッケーだよ。」 「何も言われてないのにオッケーすんなよ。」和樹が苦笑する。 「私もオッケーですよ。」琴音が言う。  驚いたのは渡辺だ。「え、ちょ、ま、待って。琴音ちゃん? 中山さん? 意味分かって言ってる?」 「はい。でも、まだお互いのことを知らないので、少しずつ親しくなれたら、ということでいいでしょうか。」 「い、いいでございます。」 「まさかのカップル成立?」和樹も驚きながら笑う。

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