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第863話 すべて世は(7)
「まあまあ、とりあえず送るから。琴音ちゃんも駅でいいの?」
「はい。ありがとうござ……ありがとう。」
そんなやりとりをしていると、奥から渡辺の母親が顔を出してきた。「お帰り? 何もお構いできなくってごめんなさいねえ。」
「いえ、こちらこそ突然お邪魔して失礼しました。」琴音が頭を下げるのを見て、渡辺の母親は目を細めた。――躾の行き届いたお嬢さんだこと。こんな子が息子の彼女だったらいいのに。そんな思いを読み取って、和樹は微笑ましい気分と共に、どこか罪悪感を覚えた。
「お二人は、おつきあいされてるの?」だから突然そんなことを話しかけられ、驚いた。
「俺とこの子ですか?」と和樹は聞き返す。「違います、俺とじゃなくて……。」和樹は琴音と渡辺を交互に見た。
渡辺は琴音に目配せし、琴音が頷くのを確認して、言った。「俺だよ、俺とつきあうことになった。ついさっきオッケーもらえたばかりなんだから、余計なこと言わないでくれよ。」
「海と? 本当に? こんな可愛らしいお嬢さんが?」渡辺の母親は琴音にぐっと顔を近づける。「いいの? これで。」
「これとは失礼な。」渡辺が母親を押しやって琴音から引き離す。「邪魔しないでってば。ほら、彼女も困ってる。」
「いえ、あの、私こそ、こんな私でいいのかなって。」
すると、琴音の言葉は届いているのかいないのか、渡辺の母親が突然顔を覆った。
「え、何、なんだよ、やめてよ。ちょっと母さん、二人の前でなんなんだよ。」
「だってあんた、あーちゃんの時からずっと……。」
「その話、今すんなって。とにかくもう大丈夫だから。はいはい、奥行って。俺、二人を送ってくるから。」
母親は背中を丸めたままうんうんと頷いた。やがて顔を上げると、涙の跡が見えた。
「ごめ、ごめんなさいね、こんなみっともないとこお見せして。ありがとうね、この子をよろしくね。」
それだけ言うとそそくさと奥の部屋へと消えていった。そこでまた泣くのを再開しているに違いなかった。
あーちゃん、と聞こえた名前は、おそらく例の、病気で亡くなった幼馴染の子のことなのだろう。母親には、その時からずっと息子の時間が止まっているかのように見えていたのかもしれない。
「彼女にはちゃんと話しておいたほうがいいんじゃない?」玄関を出てすぐ、和樹は渡辺にだけ聞こえるように囁いた。
「ああ。」
少し後ろを歩いていた琴音が「私は大丈夫ですよ」と言った。今の会話が聞こえていたのか、さっきの母親の言葉に何か勘付いての発言なのかは不明だ。振り向いた渡辺に、琴音は続けた。「言いたいことは聞くし、言いたくないならそっとしておきます。……そういう彼女が欲しいんでしょ?」
渡辺は微笑んだ。「話すよ、ちゃんと。でも今日は遅いし、余計なのがいるから、デートの時にね。」
「余計なのとはなんだ。」と和樹が言う。
聞こえていないふりを強調するように、渡辺は言った。「デートって言えば琴音ちゃん、どこか行きたいとこある?」
「私、そういうの全然分かんないです。おつきあいってしたことないし。」
渡辺が急に立ち止まり、琴音と向き合った。「マジで? 俺が初めて?」
琴音も足を止めるものだから、和樹は二人と少し距離を置いて立ち止まった。
「はい。」
「そうなんだ。」渡辺は顎を撫でてニヤつきながら、もう一度「そうなんだ。」と噛みしめるように言った。
「都倉先輩は、デートはどうしてるんですか? 帰省の時しか会えないんですか?」
「え? ああ、うちんとこは、まあ、帰省の時と、たまに、向こうがこっち来る。」
「こっち来た時は、どんなところに行くんですか?」
琴音は至って真面目な表情で、別段冷やかしているつもりではないらしい。だが、渡辺のほうは少しばかり様相が異なる。
「俺も聞きたいねえ。都倉氏お勧めのデートスポットはどこよ?」
ニヤつきながらそんなことを聞いてくる渡辺には、何も教えたくないのが本音だが、琴音の手前そうは行かない。「じゃあ、動物園。」
「上野?」
「違う、あるだろ、近くに。」
「……ああ、盲点だったな。近過ぎて小学生以来行ってないや。けど、あそこは家族連ればかりじゃない?」
「カップルもいっぱいいたよ。隣に公園もあるし。」
「あそこのボート、カップルで乗ると別れるんだろ?」
「そうなの? マジで?」それは知らない情報だった。
「乗ったのかよ。」
「乗った。」
「野郎二人でか?」
「ああ、しかもスワンボート。」
渡辺が大声で笑いだすと、つられるように琴音も笑った。
「あれ、足漕ぎボートだろ、二人でむちゃくちゃ漕いで爆走した。」
「何やってんだよ。」目尻に涙をためて笑い続ける渡辺。
「二人共水泳部だったから、水を見るとスピード出したくなる性 なんだよ。」
「いや、絶対それ水泳部関係ねえだろ。」
「おまえだって棒見たら振り回したくなるだろ?」渡辺は剣道部だったはずだ。
「それはあらゆる男子の性 だろ。」
「あ、確かに。」
「仲良いんですね。」琴音は楽しそうにする二人を眺める。
「そっちも仲良くしなよ?」と和樹はさっきの渡辺への意趣返しの気持ちも込めて、ニヤニヤしてみせた。「何かあったらいつでも言いつけに来てね。」
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