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第871話 こともなし(7)
若林の表情が硬くなる。そうなって初めて、彼がそれまでうっすらと笑みを浮かべていたことに気づいた和樹だった。酔っぱらっているせいもあるだろうが、きっと初対面と言っていい後輩を威圧しないようにという配慮だったのだろう。
「それは的外れだなあ。」若林はハイボールを呷る。「さっきから言ってるだろ、そいつは、元・男で。それがバレバレのゴツい奴で。」
「でも、ゴツい人、好きなんでしょう?」
「鍛えられた体は男でも女でも良いと思うってだけだよ。」
「先輩も相当鍛えてますもんね。ベンチプレスとか、ああいうのやるんですか。」渡辺のそんな言葉には、場が白けるのを回避したい一心が透けて見えた。
「あ、ねえや。」再びグラスに口をつけた若林が呟いた。ハイボールが空になった、という意味だろう。渡辺が慌てて注文用のボタンを探すが見当たらない。タイミング悪く店員が来る様子もない。
「俺、ちょっと行ってきます。ついでにトイレも行きたいし。ハイボールですか?」
「ああ。悪いな。」
「和樹は?」
「まだあるから大丈夫。」
「オッケ。」
広間は和室で、ひとつの座卓には六人分の座布団があるが、みんな好きなように席移動を繰り返し、この座卓には今、和樹と若林しかいない。
「そんなんじゃないんだよ。」と若林は言う。「元・男の同僚への好意」の件だろう。さっきよりは柔らかい表情だ。
「失礼なこと言いました。すみません。」
「いや、別にいいんだけどさ。ただ、本当にそういうんじゃないから。」
そう何度も繰り返すほうがよほど怪しいと思うが、和樹は黙って頷くに留めた。
「憧れてはいるかな。」若林は氷だけのグラスを持ち上げ、カラカラと回す。
「憧れ?」
「うん。俺、自分が女だったら良かったのになって思うことがあって。」
「えっ。」
「あ、違う違う。性転換じゃなくてさ。単純に、可愛い服が着たかった。子供の頃からそう。リボンとかお花とかキラキラしたものとか、可愛いものが好きで。でも、こんなゴリラになっちゃったから、似合わないだろ。で、そいつとか宮脇とか見てるとさ、羨ましいっつうか悔しいっつうか。」グラスの手が止まる。若林は和樹を見た。「これ、さっきの奴には言うなよ。」
「渡辺ですか?」
「そう。あいつ、そういうの理解しないっぽいから。」
「ちゃんと話せばそれなりに分かる奴ですよ。」
「ちゃんと話す気ねえもの、こんなこと。笑われるか、呆れられるか、そんな反応されるだけだし。」
「でも俺には言った。」
「宮脇と仲良いみたいだから。」
「ミヤちゃんのことは俺も正直よく分かんないですけどね。ただ、ああいう活動は大事だと思うんで、応援はしてます。」
「なんで?」
「なんでって?」
「だって都倉、普通にモテるだろ。なんでわざわざって思うよ。」
「まあ、自分とは関係のない話だと思ってましたね。」
「過去形?」
「過去形です。」
「変わるきっかけが宮脇?」
「いえ。」和樹は生唾を呑み込んだ。それから視線ではなく気配で周囲に人がいないことを確認した。「彼氏がね。」
「は?」
「彼氏がいるんです。」
「男?」
「彼氏なので、男です、はい。」
「なるほどね。でも、前は関係ないと思ってたってことは、最近の話? でも初めてつきあったのがその彼ってことはないだろう?」
「それまでは女の子とつきあってました。高校を卒業する頃になって、今の、その人と。」
「するっと行けるもんなの、それは。都倉も宮脇と同じ?」
「いえ。バイでもゲイでもない、と思ってるんですけど。」
「でも、男とつきあってる?」
「そうですね。結果から逆引きしたらゲイとかバイとかってことになっちゃうんですけど、それは違う気がしてて、自分でもなんて言えばいいのか、分からないです。分からないから、気になって。」
「ああ、だから宮脇とつるんでる?」
「つるむと言うほどでもないですよ。俺、彼みたいにはっきりした意志もないし、仲間が欲しいわけでもないから、あっちのサークルが居心地がいいとはならない。」
「そこは俺も少し分かる気がするな。可愛いものが好きと言っても、女になりたいんじゃないし、そういう自分に思い悩んでるわけでもない。同じような感覚の奴とは出会えた試しはないけど、積極的に同志を探そうって気持ちもない。……な、おまえ、今の話、ここのみんなは知ってるのか?」
和樹は首を横に振る。「渡辺だけです。彼だけには教えました。」
「ああ、それでさっき。」
話せば分かる奴だと言ったのか、と続くべきタイミングで、渡辺が戻ってきた。何故か両手にグラスを持っている。
「今店員さんとちょうど会ったから受け取ってきちゃった。」説明をしながら、グラスのひとつを若林に渡す。
「それもハイボール?」
「ん。」和樹の質問に、渡辺はグラスに口をつけたまま答える。
「あそっか、おまえもう成人してんだ。」
「ん。」
「都倉はまだなのか。」
「まだなんですよ。二月生まれで。」
「真面目だな。ちゃんと法律守ってんだ。」
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