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第872話 こともなし(8)

「一応。」和樹は乾いた声で笑う。「真面目っつか、知ってる奴が二人、酒飲んでおかしくなってるのを見たから用心深くなっちゃって。」 「全裸になる奴とかキス魔とかいるもんな。」心当たりでもあるのか、若林は何かを思い出すように上目遣いになる。  キス魔、という単語に一瞬涼矢がよぎったが、違う違うと心の中で打ち消した。「一人は泣き上戸で、俺んちで勝手に飲んで、突然ぐちゃぐちゃに泣きわめいたかと思ったらいきなり爆睡。泊める気なかったのに、すげえ迷惑でした。」  若林も渡辺もハハッと笑い、「もう一人は?」と渡辺が言った。 「もう一人は……えっと、ふにゃふにゃに。」 「ああ、立てなくなるほど飲む奴。あれ迷惑だよな。」  実際の状況とは違うが、若林の言葉に乗ることにした。「そう、そんな感じです。こっちに体重かけて寄っかかってくるから、重くて。」 「女の子なら役得だけど。」と渡辺が言う。 「男だよ、俺と同じぐらいでかい。」 「それ彼氏じゃねえの。」渡辺が言い、直後にハッとする。「あ、いや、彼女。彼女も結構大柄だったよな、確か。」  必死に取り繕う渡辺に、和樹は言う。「大丈夫、先輩にも言った。」 「えっ。」 「彼氏のこと。」 「うっそ。」 「ほんと。」 「いいのかよ。おまえ、琴音ちゃんと言い、ぺらぺら言い過ぎじゃね? 俺には口止めしておきながら。」 「いいんだ。若林先輩なら大丈夫。」  若林が苦笑いする。「都倉さ、おまえ、そう言って釘刺してんだろ?」 「バレました?」 「ま、俺、飲んでる時の話は忘れるから。」  ニヤリとしてハイボールを傾ける若林に、和樹は小さく頭を下げ、「ありがとうございます。」と言った。 「イケメンの彼氏は、やっぱイケメンなの? それとも可愛い系?」 「どっちでもないですね。」 「イケメンじゃん。」と渡辺がまた口を挟む。 「そうかな。」 「おまえのイケメンのハードルが高過ぎんだよ。あー、でも、その顔を毎日見てりゃしょうがないか。」 「渡辺も知ってるの? うちの大学? もしかしてサークル内恋愛?」 「違いますよ。同じ高校だった奴で、今も地元にいます。」 「地元ってどこ。」 「X県。」  それを聞いて、若林はまた何か思い出すように小首をかしげた。 「都倉、ちょっとここ抜けられるか。」 「え?」  若林は、彩乃たち女子を中心に一番盛り上がっているテーブルをちらりと見る。広間の隅にいるこのテーブルに関心を寄せている者はいなさそうだ。「今のうちに。」 「え、あ、はい。」 「いっぺんに出ると目立つから、先に出てろ。俺、金払っておくから。」  渡辺は若林と和樹の顔を交互に見た。 「俺は一応残るわ。鈴木のフォローしなきゃなんないし。」 「そうか? じゃあ、俺の分、おまえに渡しておく。」  和樹が財布を出すと、渡辺が人差し指を立てて見せた。「和樹は一時間もいなかったし、ウーロン茶だろ。千円でいいよ。」 「そう? サンキュ。足りなかったら後で言って。」 「おう。」 「都倉の分は俺が。」 「いいですって。OBからはもともと多めにもらってるはずなんで。」渡辺の言葉を聞いて、この打ち上げに関しても、渡辺や鈴木たちがきちんと予定を立て、それぞれの役割を果たしていることを改めて知る。結局自分は蚊帳の外かと淋しくもあり、同時にそれも当然だと開き直る気持ちもある。 「じゃあ、外にいます。」  和樹はそそくさと店の外に出て、既にシャッターを下ろしている隣の店の前に立つ。今年は去年よりずっと参加率の高かったサークル活動だった。その一番の盛り上がりが学園祭であり、この打ち上げのはずだ。今まであまり話したことのないサークルメンバーとも親しくなったし、新たに入ってきた後輩ともそれなりにうまくやっていると思う。この打ち上げで、中でも賑やかで華やかだった彩乃たちのグループに入っていけば、より一層みんなと親密になれただろう。少なくとも高校時代の自分ならそうしたし、実際男からも女からもよく声を掛けられ、いわゆる「人気者」のポジションにいた。  でも、こうして若林に打ち上げから連れ出してもらえてホッとする自分がいる。 「会社はマスコミ系ですか。」  和樹は若林に尋ねた。テレビや広告、出版といった業界に進みたい者が多いサークルで、OB・OGにも多い。 「いや、全然関係ない。半導体メーカー。」 「あ、そうなんですか。外資って言ってましたよね。」 「そう。本社は北米。」 「公用語は英語だったり。」 「大きめの会議はそうみたいだよ。ウェブ会議もよくやってるしね。俺はまだそれに参加するほど偉くないから関係ないけど。」 「かっこいいですね。海外転勤もあるんですか。」 「ある。あるから選んだ。」 「海外で働きたいんですか。」 「そう。日本はちょっと、息苦しくてさ。」  哲の顔が浮かんだ。おそらく彼にとっても、日本は息苦しいところだっただろう。日本が、と言うよりも、彼の家族や、過去に関係してきた男たちに囚われざるを得ない環境が、と言ったほうが正確だろうか。

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