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第875話 precious moments(3)

「そこの卒業生で……たぶん都倉と同じ学年だったと思うんだけど、女子にさ、夏までスランプでガタガタだったのに、秋口から急に成績出してきてる選手いるだろ?」 「それって……エミリ? 堀田エミリのことですか?」 「そんな名前だったかな? そこまでは覚えていないんだけど、その子の快進撃がちょこっとネットで話題になってたのを見て、ふみが言ってたんだよ。その選手、ふみの初恋の相手の同級生かもしれないって。」 「ちょっ、さっきから聞いてれば人の話をべらべらしゃべって。」香椎は若林の上着をひっぱって抗議したが、若林は意に介さない。  そして、和樹もまた、心がざわつき、香椎の心情を慮る余裕はなくなっていた。 ――エミリの同級生なら、もちろん俺の同級生でもあって。 ――ゲイだという香椎先輩の初恋の相手なら、当然男のはずで。 「香椎先輩はS高じゃないんですよね? だったら、その相手の人とはどこで?」 「えっと、その……中学の後輩。」  初対面の和樹に対してはあまり強い態度に出られず、ついポロリと口にしてしまったという様子の香椎だ。  それを聞いて、和樹は頭が真っ白になる。 ――中学の後輩。  その単語ばかりがぐるぐると頭を駆け巡った。  涼矢の二度目の恋。相手は中学の先輩だったと聞いた。入水自殺さえ図るところだった、辛い恋。きっと辛過ぎたからだろう、初めてその話を聞いた時には、相手の記憶はほとんどないのだと言っていた。 ――まさか、この人が、そこまで涼矢が追い詰められた時の……。 ――いや、でも、そんな偶然があるはずない。  それに、涼矢が死へと(いざな)われたのは、その恋の相手にされた仕打ちが原因ではない。少なくとも、初恋の家庭教師のように、相手に裏切られたり、貶められたりしたせいではなかったはずだ。相手が香椎であれ他の誰かであれ、あの時の涼矢は、「自分が同性にしか恋愛感情を抱けない事実」に打ちのめされたのだ。  感情をかき乱されているさなかに、若林の声が飛び込んできた。「だって、ふみ、その子が今どうしてるか気にしてただろ。もしかしたら都倉なら知ってるかもって。」 「あのっ。」和樹が若林を見る。「どうしてそんな、香椎先輩の初恋が気になるんですか。それに香椎先輩も、中学生の時に好きだった人のことなんて、なんで今更。」 「ずっと気にしてたわけじゃないよ。」香椎は穏やかに言う。「ただ、さっき若林先輩が言ってた水泳選手を見て思い出しただけ。その子も、中学では水泳部だったから、高校でも続けてたかなって思って。そう言ったら、この人がやけに食いついて。僕はもう、そんな子供の頃のことなんか別に。」時折若林に意味ありげな視線を送る。 「そりゃあ気になるよ。だっておまえ。」 「はいはい、この話はもうおしまい。(りょう)くんさ、いい年して僕の初恋がどうこうなんて、都倉くんまで巻き込んで何やってんの。」  リョウくん。それまでぞんざいながらも「若林先輩」と呼んでいた香椎が口にしたその名に、和樹は戸惑う。 「俺、下の名前、亮也(りょうや)っての。これがさ、さっきから言ってる、ふみの初恋の相手と同じ名前なんだと。」  和樹は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。その可能性はずっと考えていたはずだったが、同じだけ否定しつづけてもいた。 「つまりふみは、俺の名前が気に入って告ってきたんだよな。」 「そんなわけないでしょうが。」 「違うの?」 「きっかけのひとつだっただけ。懐かしい名前だなって。それだけ。」 「でも、忘れられないっつってただろ。」 「しつこいなあ、自分が振ったくせに、何だっての。」 「振ったも何も、おまえだって本気じゃなかっただろ。」  奇妙な痴話喧嘩を始めようとする二人を前にして和樹は呟く。「……田崎?」 「えっ。」香椎が眼鏡の奥の目を丸くして和樹を見る。 「田崎、涼矢?」 「……知ってるの?」  和樹は頷いた。知らない振りをしていたい気持ちと、現在の自分との関係をつきつけてやりたい気持ちとが入り混じる。 「友達?」 「俺も、田崎も、水泳部でした。」  友人関係かどうかについては意図的に濁した答えに、香椎は何故かホッとしたように微笑んだ。「田崎くん、やっぱり水泳続けてたんだ。」 ――そう。高校でも続けてた。でも、本当は違う部活に入るつもりだったと言っていた。高校でも水泳を続ける決め手となったのは、俺だ。俺がいるから、水泳部に入ったのだと、言ってたんだ、涼矢は。それから……そうでなけりゃ美術部あたりに入るつもりだったとも。 「香椎先輩は、美術部でしたか? 中学の時。」 「えっ? そうだけど……どうして?」  もう無理だ、と和樹は思う。認めないわけにはいかない。この人が「あの先輩」なのだ。知らないふりももうできない。 「香椎先輩が田崎のことそんなに気にかけるのは、あなたに懐いてたはずのあいつが、突然姿を現さなくなったからですか?」 「なん……何の話?」 「あいつ美術室にたびたび行ってましたよね。そこであなたは絵を描いてた。あいつにCG教えてやったのもあなたですよね。でも、ある時からあいつは美術室に来なくなって、そのままあなたは卒業した。」

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