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第877話 precious moments(5)

 香椎は一瞬戸惑う様子を見せたが、やがてさっきと同じように微笑んだ。「そう。そうだね。そういうことだよね。言われてみたら僕もそうだな。その経験があったから、亮くんにはちゃんと気持ちが言えたし、恋人は無理でも、こんな感じに仲良くなれたしね。」 「ふみは調子いいよな。」それまでずっと黙って聞いていた若林がそう言い、笑った。 「調子よくすることにしたんだよ。田崎くんとのこと、後悔してたから。言える時には言っておこうと思って。」 「やっぱそれなりに引きずってるじゃん。さてはおまえ、リョウヤって名前で恋人を呼んでみたかっただけじゃない?」 「そうかも。」香椎も笑う。「でも結局、一度もそんな風に呼んだことないね。若林先輩か、亮くん。都倉くんは彼のこと、なんて呼んでるの。」 「りょ、涼矢、です。」 「あー、いいな。」 「こらこら、今更邪魔したりするなよ?」 「しないよ。だって本当に嬉しいもの、田崎くんがさ、都倉くんと幸せになってるのが分かって。」香椎は一拍置いて和樹を窺い見た。「気がついてたよ。彼の気持ち。彼は感情を外に出すタイプじゃなかったけど、ずっと見てたからね。」  和樹は、やっぱり、と思う。やっぱり涼矢の好意に気づいていた。そして、やっぱりこの人も本当に涼矢のことが好きだったんだ。その二つの「やっぱり」だ。 「だから、だんだん元気がなくなっていく理由も分かってた。彼はきっとそのことで悩んでたんだよね? つまり、同性を好きになる自分に。」  もうひとつの「やっぱり」だった。さっきまで、両想いだったことにも、涼矢のその苦悩にも気づいていなかったように話をしていたのは、おそらく現在の恋人である和樹への気遣いだったのだろう。そして、和樹と涼矢の関係がそんなことで壊れそうにないことを確信して、今ようやく本当のことを話し出したのだ。 ――つきあいはじめの涼矢もそうだった。好きだとは言ってくれても、本心はなかなか明かさなかった。やっと本当の気持ちを言ってくれたかと思えば、それは二重にも三重にもなった想いの外側で、つきあいが深くなるにつれて少しずつ内側を見せてくれるようになった。そんな涼矢に対して、信頼されていないのかと淋しく思ったこともある。でも、そうじゃないんだ。涼矢も、この人も、それほどまでに重装備しなければ自分を保てなかったのだ。最近になってようやく分かってきた。  和樹は無言で頷いた。香椎は変わらず穏やかな表情で頷き返す。「彼はって言うより、彼も、って言ったほうがいいかな。僕もね、中学の時は同じように悩んでた。同じだったから、自分の気持ちだけで手一杯で、彼を受け止めきれなかったし、彼に飛び込んでいくこともできなかった。でも、都倉くんとはそこも乗り越えてきたわけでしょ。……うん、だから、本当に、良かった。」  噛みしめるように言う香椎を見て、和樹は改めて気づく。――そうだ、その時、この人もまだ中学生だったんだ。中二と中三の少年が誰も知らない美術室で、密やかに、でも真剣に恋をして、真剣だったからこそ踏み出せなかった。  でも、今はこんな風に穏やかに笑えるようになった。涼矢もだ。その後の香椎先輩がどんな経験を積んだのかは知らない。でも、誰にも言えずに苦しんでいるわけじゃないことだけははっきりしている。 「……涼矢に伝えてもいいですか。今日の話。」 「うん、いいよ。都倉くんさえ嫌じゃなければね。」 「でも、お互いの連絡先とかは。」 「ああ、もちろん、そんなの教えなくていい。僕も聞かない。だって、その気になれば調べられるでしょ、同じ中学だもん。でも、今までそうしようと思わなかった。彼も、僕も。そういうことだよ。」 「心狭くてすみません。」 「当然だよ、大体、都倉くんの立場だったら僕とこんな風に会うのだって不愉快でしょ。それをね、この人が余計なことするから。」香椎は若林に流し目のように視線を送る。 「いえ、お話しできて良かったです。」 「都倉だってこう言ってるし、おまえもすっきりしただろ? 良かったじゃん。」若林が自慢気に言い、香椎の肩を叩いた。香椎は苦笑しつつもさほど嫌がってはいない。 「仲良いですね。」思わずそんな言葉が出た。 「変な奴らだと思ってるでしょ?」香椎が言う。 「けど、都倉も渡辺がいるから分かるだろ? 隠さなくていい相手が一人でもいるとだいぶ気が楽だ。」若林はこの店で既に二杯目のハイボールを呷る。 「香椎先輩も、他の人には隠してるんですか?」 「うん。言わないね。この人しか知らない。確かにこの人がいなかったらサークルは……大学も随分と居心地の悪いところだったろうね。そこは感謝してるよ。」 「そこだけか?」 「そこだけでしょうよ。僕は先輩に失恋した身だってことをお忘れなく。」 「なーにが失恋だ。人のこと振り回すだけ振り回して、俺がちょーっと時間くれって言ったら、それならもういいなんて。振られたのは俺のほうなんじゃねえか?」

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