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第64話 彼らの事情(4)
マスターが去った後、2人は顔を見合わせる。
「マスター、結婚してたんだね。指輪してないけど。」と和樹が言った。
「飲食の人は指輪しない人も多いからね。」
「涼矢、F市に親戚いるんだ?」
「母方の……深沢の本家だよ。事実婚の理由のひとつ。」涼矢の両親は籍を入れておらず、別姓を保つための事実婚をしている。田崎は父方の姓だ。「保守的な老人ばかりで、過疎化が進むのも仕方がない町だよ。うちも、本家のうるさ方がいなくなったらとっとと始末するんだろうよ、佐江子さんが。そしたら、親父と籍も入れるかもしれないな。」忌々しそうに語る涼矢。察するに、その土地にも「本家」にも、あまり良い思い出はないのだろう。和樹は詳しく聞きだそうとは思わなかった。
それからトーストやサンドイッチを食べる。念願の茹で卵はエッグスタンドに載せられていて、涼矢が「エッグスタンドって見ると欲しくなるんだけど、絶対家じゃ使わないんだよな。」などと言った。俺は別に欲しくもならないけど、と和樹は思ったが、言わずにおいた。
そして、食後のコーヒー。
「毎朝こういう香りで目覚めたいもんだね。」と和樹が言った。
「そのためには、コーヒー淹れられるぐらいは俺のほうが早起きしないといけないな。」
「そういう意味じゃないけどさ。」
「努力するよ。良き嫁になるべく。」
ははっ、と和樹が笑う。「そう言えば、マスターの奥さんって何やってる人なんだろね。お店には出てないみたいだし。結構お客さん入ってるみたいなのに、マスター1人じゃ大変じゃないのかなあ。」
「マスターが所帯じみてないから、奥さんとかこどもとか、想像つかないね。」
「聞いてみる?」
「失礼じゃない?」
「でも、さっき自分から奥さんの話してたしさ、変に間を空けるより、こういう時に聞いたほうが。」
タイミング良く、マスターがお水のお代わりを注ぎに来た。
「あの、失礼なことかもしれませんけど。」和樹は話しかける。「さっき言ってた奥さんって、一緒にお店やってないんですか?」
「やってますよ。今は店には出てないけど、自家製のケーキは妻が作ってます。実は、産休中なんですよ。来月出産予定で。」
「えっ。」和樹は思わず驚愕の声を上げてしまった。マスターは白髪頭で、肌の感じ等からも、自分の親よりも年上に見える。どんなに若く見積もっても50歳以下ということはないだろう。60歳と言われても納得する。
和樹の戸惑いを見透かすように、マスターは「妻は20歳年下です。驚いた? 私がもうこんなおじさん……というより、年寄りだからね、妻ももう30代だけれど。」と言って笑った。「一応、どちらも初婚です。」
「あ、その……おめでとうございます。」
「ありがとう。」マスターは少しだけ照れたように笑って、またカウンターの内側へと戻った。
マスターに聞こえない程度の声で「驚いた。」と和樹は言った。
涼矢は無言でマスターを眺めている。
「どうかした?」和樹が聞いた。
「……あの人のこと、俺に似てるって言ってただろ?」
「うん、雰囲気がね。」
「俺もあの年まで、現役でヤレるのかなって。20歳も若い相手を満足させられるほど。いや、俺が還暦ならおまえも還暦だけど、その頃もまだそういう熱意と身体能力は果たして残っているのかな、と。」
和樹はコーヒーを噴き出しそうになり、むせた。「な、何をおまえはっ。」
「こどもはどんなに頑張っても産めないけど、そっちなら多少は努力のしようがある。できる限り頑張ってみるから、こんな私だけどお嫁さんにしてくれますか?」
「あのな、ここ、外だし……そんなことを、そんな真顔で言うな。」
「8割ぐらいは真面目な気持ちで言ってるよ。」
「残りの2割は?」
「おまえに断られても、冗談を真に受けるなと笑ってごまかすための予防線。」
和樹は水を一口飲んだ。「断らないよ。冗談でも、そうじゃなくても。」
「ん。ありがと。」涼矢は少しだけ残っていたコーヒーを飲み干した。「美味しかった。ごちそうさま。」
2人は店を出た。今日もマスターはドアまで見送りに来てくれた。今度来る時には、この人も父親になってるかもしれない、と和樹は思った。涼矢と付き合っていく限り、自分には訪れない幸せ。でも、だからといって涼矢を手放す気にはなれない。涼矢も店ではあんな風に冗談めかして言っていたけど、似たり寄ったりのことを考えたのかもしれない。そしてほんの少し不安にもなったかもしれない。プロポーズめいたことは既に言ったし、指輪交換のようだと言いながらピアス交換もした。年を取っても一緒にいてほしいとも伝えた。それでもあんなことを言い出したのは、そんな不安の表れなのだろう。
「夕立って夕方だよな。」と和樹は言った。
「そりゃあ、夕立だからね。朝だったら。」
「朝勃ち。って下ネタはやめなさい、涼矢くん。」
「俺は言ってねえ。」
「それはともかく、夕方までは天気もつんなら、どっか近いところ、行くか。」
「映画とか?」
「観たいのある?」
「特にない。ビデオ借りて家で観る?」
「そういうのもったいない気がする。せっかく涼矢来てるのに。」
「俺は構わないよ、和樹がいれば。一日家に籠ってたっていい。」
「やることはひとつだけどな。」
「ほら、下ネタは和樹だ。」
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