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第881話 precious moments(9)
和樹の沈黙に、香椎は慌てて顔を上げた。「あっ、変なこと言ってごめん。昔の話だし、蒸し返すつもりはなくて。良い思い出ならそれでいいし、大して覚えてないんならそれでもいいんだ。ただ、もし、あの時のことが、田崎くんの何か……棘みたいにひっかかってるようだったら、それは僕のせいだと思うから、ごめん、って。」
「大丈夫ですよ。」とっさに出た言葉だった。本当は香椎の言う通りだ。そう、それは棘だ。涼矢の心の奥底に長いことひっかかっていた記憶。――でも、もう大丈夫だ。今の涼矢なら。だって俺がいるんだから。「涼矢が今ここにいたら、きっと同じこと言いますよ。」和樹は香椎に微笑みかけた。「先輩だってキツかったでしょ。男の後輩好きんなって。だからきっと、涼矢も言います、ごめんなさいって。」
「はは。」香椎は力なく笑った。「後輩にフォローされちゃうなんて、カッコ悪。」
「そんなことないです。……とにかく先輩も涼矢も、今は幸せでよかった。」
「ははっ。」今度の笑い声は、さっきとは違い、張りのある声だ。「僕はともかく、田崎くんが幸せだって保障できるの?」
「はい。で、これからもっと幸せにしますよ。」
「都倉くんが?」
「はい。」
「言うね。」
そんな話をしているうちに若林が店から出てきた。三人はサークルのメンバーとかち合わないよう、裏道を通って駅に向かい、それぞれの帰途についた。
和樹は自分のアパートの部屋までたどり着き、部屋の電灯をつけると、上着も脱がずにその場にへたりこんだ。実のところ終電までにはまだ余裕があったのだが、一刻も早く香椎と若林から、あるいは他のサークルメンバーからも、解放されたい気分だった。
――疲れた。
学祭の撤収作業がもちろん肉体的疲労の直接の原因だが、香椎との思いがけない出会いが和樹の神経を興奮させ続け、より一層疲れさせていた。
ふう、と息を大きく吐き、その呼吸で勢いをつけて、ようやく立ち上がる。
風呂に入らないと。明日は朝から通常の講義。あれ、レポートの提出期限はいつだったけか。塾のバイトは中二の古文と小六の国語。ああ、久家先生に借りた本、まだ半分も読めていないや。そう言えば歯磨き粉が切れそうだったけど、新しいの買ったっけ。なんだか小腹が空いたな……。
香椎に集中していた分、今はひどく散漫にしか考えられない。和樹は半ば無意識に浴室に向かい、風呂のスイッチを入れる。
湯が溜まるまでの間にと、和樹は涼矢に電話をかけた。いつもならまずはメッセージを送り折り返しの電話を待つが、それすらも煩わしかった。
――和樹?
「ああ。起きてた?」
――うん。今、帰ってきたのか?
「そう。ついさっき。」
――打ち上げだったんだろ?
「うん。片付けに時間かかって、打ち上げ始まるのも遅くて、一次会に顔出しただけでこんな時間になっちゃった。」
――お疲れ。あ、俺からかけ直そうか?
「いや、いい。風呂沸くまでの間だけ、つきあってよ。」
――お湯溜めてるとこ?
「そう。なんか、すっげえ疲れた。」
――力仕事だった?
「それもそうだし、あと、打ち上げにOBやら先輩やら来て緊張したから。」
――へえ。和樹でも緊張するんだ。
「人をなんだと思ってんだよ。」
――コンテストに出るぐらいだし。
「なんでみんな俺が出たがってたみたいに言うんだよ。全然出たくなかったっつの。」
――出たくなくてもこなせるんだから、それも才能だな。
「要らねえよ、そんな才能。」
――そうか? 営業マンでも先生でも、役に立つ才能じゃない?
「……役に立つんかなあ。」
――で、誰に言われたんだよ。
「何を?」
――和樹を目立ちたがり屋みたいに言う奴がいたんだろ?
「ああ、それ?」
――それ。
「冷やかしで時々言われるんだよ。今日は初対面のOBに言われた。去年も学祭見に来てたらしくて、向こうは俺のこと知ってて。」
――有名人だな。
「やめろって。あーあ、出なきゃよかった。」
――悪いことして目立ってるわけじゃないんだから、いいんじゃないの。
「まあね。今更言ったってしょうがないしな。それに、そのおかげで今日すげえいいことがあってさ。……いや、よくもないか。いや、やっぱいいことだよな。」
――何ひとりでぶつぶつ言ってるの。
「うん。とにかく、すごいことがあった。でも、風呂沸くまでに終わる気がしないから、風呂出てからもういっぺん電話するわ。」
――勝手だな。
涼矢は笑いながら言う。
「悪い。でも今マジで疲れてるし、寝落ちしたらごめん。」
――風呂で寝るなよ。
「ああ。」
――スマホ、風呂の中でも音が聞こえるところに置いておけよ。一時間してもかかってこなかったら俺からかける。
「心配すんなって。」
――心配するに決まってんだろ。
「あー、はいはい、分かったよ、お母さん。」
――誰がお母さんだ。
和樹が笑うと同時に、風呂の湯が一定量溜まったことを知らせる音が鳴った。湯を張るだけで追い焚き機能はない。すぐに入らねば冷めてしまう。
「あ、沸いたわ。じゃあ、また後でな。」
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