881 / 1020

第881話 precious moments(9)

 和樹の沈黙に、香椎は慌てて顔を上げた。「あっ、変なこと言ってごめん。昔の話だし、蒸し返すつもりはなくて。良い思い出ならそれでいいし、大して覚えてないんならそれでもいいんだ。ただ、もし、あの時のことが、田崎くんの何か……棘みたいにひっかかってるようだったら、それは僕のせいだと思うから、ごめん、って。」 「大丈夫ですよ。」とっさに出た言葉だった。本当は香椎の言う通りだ。そう、それは棘だ。涼矢の心の奥底に長いことひっかかっていた記憶。――でも、もう大丈夫だ。今の涼矢なら。だって俺がいるんだから。「涼矢が今ここにいたら、きっと同じこと言いますよ。」和樹は香椎に微笑みかけた。「先輩だってキツかったでしょ。男の後輩好きんなって。だからきっと、涼矢も言います、ごめんなさいって。」 「はは。」香椎は力なく笑った。「後輩にフォローされちゃうなんて、カッコ悪。」 「そんなことないです。……とにかく先輩も涼矢も、今は幸せでよかった。」 「ははっ。」今度の笑い声は、さっきとは違い、張りのある声だ。「僕はともかく、田崎くんが幸せだって保障できるの?」 「はい。で、これからもっと幸せにしますよ。」 「都倉くんが?」 「はい。」 「言うね。」  そんな話をしているうちに若林が店から出てきた。三人はサークルのメンバーとかち合わないよう、裏道を通って駅に向かい、それぞれの帰途についた。  和樹は自分のアパートの部屋までたどり着き、部屋の電灯をつけると、上着も脱がずにその場にへたりこんだ。実のところ終電までにはまだ余裕があったのだが、一刻も早く香椎と若林から、あるいは他のサークルメンバーからも、解放されたい気分だった。 ――疲れた。  学祭の撤収作業がもちろん肉体的疲労の直接の原因だが、香椎との思いがけない出会いが和樹の神経を興奮させ続け、より一層疲れさせていた。  ふう、と息を大きく吐き、その呼吸で勢いをつけて、ようやく立ち上がる。  風呂に入らないと。明日は朝から通常の講義。あれ、レポートの提出期限はいつだったけか。塾のバイトは中二の古文と小六の国語。ああ、久家先生に借りた本、まだ半分も読めていないや。そう言えば歯磨き粉が切れそうだったけど、新しいの買ったっけ。なんだか小腹が空いたな……。  香椎に集中していた分、今はひどく散漫にしか考えられない。和樹は半ば無意識に浴室に向かい、風呂のスイッチを入れる。  湯が溜まるまでの間にと、和樹は涼矢に電話をかけた。いつもならまずはメッセージを送り折り返しの電話を待つが、それすらも煩わしかった。 ――和樹? 「ああ。起きてた?」 ――うん。今、帰ってきたのか? 「そう。ついさっき。」 ――打ち上げだったんだろ? 「うん。片付けに時間かかって、打ち上げ始まるのも遅くて、一次会に顔出しただけでこんな時間になっちゃった。」 ――お疲れ。あ、俺からかけ直そうか? 「いや、いい。風呂沸くまでの間だけ、つきあってよ。」 ――お湯溜めてるとこ? 「そう。なんか、すっげえ疲れた。」 ――力仕事だった? 「それもそうだし、あと、打ち上げにOBやら先輩やら来て緊張したから。」 ――へえ。和樹でも緊張するんだ。 「人をなんだと思ってんだよ。」 ――コンテストに出るぐらいだし。 「なんでみんな俺が出たがってたみたいに言うんだよ。全然出たくなかったっつの。」 ――出たくなくてもこなせるんだから、それも才能だな。 「要らねえよ、そんな才能。」 ――そうか? 営業マンでも先生でも、役に立つ才能じゃない? 「……役に立つんかなあ。」 ――で、誰に言われたんだよ。 「何を?」 ――和樹を目立ちたがり屋みたいに言う奴がいたんだろ? 「ああ、それ?」 ――それ。 「冷やかしで時々言われるんだよ。今日は初対面のOBに言われた。去年も学祭見に来てたらしくて、向こうは俺のこと知ってて。」 ――有名人だな。 「やめろって。あーあ、出なきゃよかった。」 ――悪いことして目立ってるわけじゃないんだから、いいんじゃないの。 「まあね。今更言ったってしょうがないしな。それに、そのおかげで今日すげえいいことがあってさ。……いや、よくもないか。いや、やっぱいいことだよな。」 ――何ひとりでぶつぶつ言ってるの。 「うん。とにかく、すごいことがあった。でも、風呂沸くまでに終わる気がしないから、風呂出てからもういっぺん電話するわ。」 ――勝手だな。  涼矢は笑いながら言う。 「悪い。でも今マジで疲れてるし、寝落ちしたらごめん。」 ――風呂で寝るなよ。 「ああ。」 ――スマホ、風呂の中でも音が聞こえるところに置いておけよ。一時間してもかかってこなかったら俺からかける。 「心配すんなって。」 ――心配するに決まってんだろ。 「あー、はいはい、分かったよ、お母さん。」 ――誰がお母さんだ。  和樹が笑うと同時に、風呂の湯が一定量溜まったことを知らせる音が鳴った。湯を張るだけで追い焚き機能はない。すぐに入らねば冷めてしまう。 「あ、沸いたわ。じゃあ、また後でな。」

ともだちにシェアしよう!