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第882話 precious moments(10)

 それでも、涼矢と話すと少し疲れが取れた気がした。久しぶりに鼻のあたりに水面が来るほど体を湯に沈める。それは和樹が考えごとをする時の癖だったが、東京に来てからはあまりしていない。バスタブはただでさえ窮屈で、わざわざ更に息苦しくなるようなことをする気になれなかった。 ――こんな窮屈なバスタブに、無理して二人で入ったこともあったな。  その時のことを思い出すと滑稽で笑ってしまう。全裸で重なり合うようにして入ったものの、満足に肩まで浸かることもできなかった。  大柄な男二人で住むのなら、せめて涼矢の家のバスルームほどの広さは欲しいところだ。そんな妄想を膨らませては、また一人でニヤついてしまう。  その勢いで洗面所の大きな鏡の前で取らされた自分の痴態まで思い出すと、そのニヤつきは消えた。今でもはっきりと覚えている。立ったまま後ろから突かれ、更には片足を大きく持ち上げられ、鏡に映るその結合部を見るように強いられた。いや、それよりも恥ずかしかったのは蕩けきった自分の顔だ。  熱い湯に浸かりながらも、和樹はぶるっと身を震わせた。あの時の快感を追体験した気分だった。  風呂のせいなのか、そんなことを思い出したせいなのか判然としないまま、のぼせた和樹は風呂を出た。涼矢の指示通りにドアを開けてすぐのところに置いたスマホを取り、パジャマ兼用の部屋着を着た。水道水をコップに汲んで飲むと、少し火照りが収まった。  勢いよくベッドに倒れ込む。目をつぶったらすぐに眠ってしまうだろう。だが、そんなことをしたら涼矢から電話がかかってくるだろう。そろそろ予告された1時間が経過しようとしている。  和樹は今度はメッセージで風呂から上がったことを伝えた。すぐに折り返しの電話がかかってきた。 「超早い反応だな。ずっと待ってたの。」 ――ああ。 「心配症だなあ。」 ――心配もするよ、だってそこで倒れたら誰が気づくよ? 「……そっか。新聞も牛乳も取ってないもんなあ。隣近所と毎朝挨拶するわけじゃないし。え、俺って、もし急死したら、気づかれないまま数日放置されるのか? 異臭騒ぎで発見されたりするわけ? うっわ。」 ――シャレになんねえだろ。盲腸の時だって。 「そうだな。あれは塾の先生たちと一緒だったから逆にラッキーだったんだな。」 ――そうだよ。無断で一日連絡なかったら、俺、そっちに乗り込んでやるからな。 「それ、全然脅しになってねえよ。」和樹は笑った。「まあ、そんなことはともかくな。さっきの話。」 ――ああ、すげえこと? 「なんだと思う?」 ――あ、俺、そういうの苦手。話したいのはそっちなんだから、焦らすのやめろ。 「もう、つまんねえのな。でも、聞いたら、俺よりおまえのほうがびっくりするぞ。」 ――なんだよ、宝くじでも当たったか? 「違う違う。えーと、じゃあヒントな。ある人物と会いました。偶然。」 ――クイズ形式もあんまり……。 「いいだろ、少しはノッてくれよ。」 ――じゃあ、明生くん。 「ハズレ。つか、意外な人物だってば。」 ――えー……俺の知っている人? 「うん。俺よりおまえのほうが知ってる人。」 ――ますます分かんねえよ。……ポン太? 「違うって。あいつだったらこんなに焦らさないっての。もっと意外な人物。」 ――意外ねえ……。それで共通の知り合いで、でも俺のほうがよく知ってると言うと……? 「共通の知り合いというのとは少し違うな。俺はおまえから話を聞いてただけで、実際会うのは今日が初めてだった。」 ――はあ? なんだそれ。和樹は会ったことないけど、顔は知ってたってこと? 写真かなんか見せた? 「いや、そうじゃない。顔も名前も知らなかった。けど、会話してるうちに分かったんだ。涼矢の知り合いだって。」 ――もう無理。降参。 「仕方ないなあ。じゃあ、この名前に聞き覚えは? ……『文彦』。」 ――俺が人の名前なんか覚えてるわけが……。え? 文彦? 「そう。文彦さん。」 ――えっ、ちょっと、どういうこと? 「今おまえが思い浮かべてる人の苗字は覚えてる?」  涼矢がゴクリと唾を飲み込む気配がした。 ――……香椎? 「ご名答。」 ――なんで……いや、それ、どういうことだよ? 和樹がなんで。  涼矢はパニックになりそうになりながら、何度も同じ質問を繰り返した。 「うちの大学の――学祭サークルの先輩だった。」 ――マジかよ……。 「うん。マジ。」 ――……東京に行ったのか。  それは独り言のような小声だった。 「ああ。でもサークルも滅多に来なくて、俺以上の幽霊部員でさ。学祭準備だけは辛うじて来たみたいなんだけど、俺とは担当場所が違ってて、そこでも顔は会わせてなくて。打ち上げでやっと挨拶した。」 ――でも、なんでそれが。俺、名前なんか教えてないよな? 「教えてもらってない。だから、名乗られても分かんなかった。でも、別の先輩が。その人はもう卒業してて、会社員になってる人なんだけど、その人が紹介してくれたんだ。同じ県出身だからって。」 ――同じ県だからって。

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