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第885話 sinner(1)

 和樹からの電話は衝撃的だった。和樹にはそう響かなかったかもしれないし、そうであってほしいと思うけれど。  通話を終え、スマホを充電器に置きながら、涼矢は和樹との会話を反芻していた。 ――香椎文彦。  ずっと忘れていたはずのその名前は、和樹に示唆されるとすんなりと思い出せた。顔を思い出したのはもっと前、和樹と一緒に「あの海」に行った時だが、その時も名前のことは何故か抜けていた。思い出そうともしていなかった。 ――あの人との記憶を、どう処理していいか分からなかった。  渉先生が好きだった。でも、渉先生と新たな関係になりたいと望んだわけではなかった。ただ、もっと近くで見ていたいと思ったし、見ていてほしいと思った。望んだことはそれだけだ。もうその望みが叶う手段はない。近くどころか、誰よりも遠いところにいってしまった。それでも最近はその絶望的な悲しみの中に、少しだけ違う感情が入り込む。懐かしさに似た、切なくも温かな想いだ。  和樹が好きだ。今の関係がずっと続いてほしいと思う。かつて和樹に対して抱いていた願望は、すべて果たされたと言っていい。でも、そうなったらなったで欲は限りなくて、もっと密に繋がっていたいと思う。長い片想いをしていた時のことを思えば、物理的な距離など大したことではないと思っていたけれど、やはりどうしようもなく苦しい時がある。  香椎先輩が好きだった。渉先生への想いとは違った気がする。あの人に触れたいといつも思っていた。スケッチブックやキャンバスを示して「ここまで描けたよ」と彼が言えば、彼の背後に回り込み、中腰になって一緒にその絵を眺めた。先輩の肩越しに顔を出すと、先輩の髪からはほのかにシャンプーの香りがした。水泳部で髪を短く刈り込んでいた自分とは違い、いかにも文化系男子といった風情の彼の髪は長めで、絵よりもその襟足や首筋に見入っていたこともある。そんな日は帰宅後決まって自慰をした。  高三で部活を引退した時、やたらと髪を伸ばした。それは無意識にあの頃の香椎先輩の髪型を真似したかったのだと今更気がつく。  香椎先輩との記憶は性欲と絶望がセットになっている。  渉先生に憧れていた頃は、同性を好きになることに罪悪感はなかった。それはいけないことなのだと植え付けられたのは、その渉先生の死がきっかけだ。そこまで追い詰めた相手を当然憎んだ。憎み、怒っていれば罪悪感はなかった。でも、憎み続けるには大量のエネルギーが必要で、小学生から中学生になろうという自分は、彼の死にだけ集中しているわけにはいかなかった。それと同時に、同性愛者を揶揄したり批判したりする言葉が耳に入ってくるようになった。――同性に恋愛感情を持った渉先生にも非があったんじゃないか。そんなはずがないと否定しながらも、一定数の人間がそれを支持する世の中なのだということが見えてきた。  同性に恋愛感情など持つべきじゃない。自分はそんなことしない。  渉先生は好きだったけど、憧れてただけだ。大丈夫、俺は、同性愛者じゃない。  そう言い聞かせてスタートした中学生活。  そこで出会ったのが香椎文彦だった。正直に言えば、最初は彼をかわいそうな人だと思った。歩く時に足を少し引きずっていたから。その「ハンディキャップ」に勝手に同情し、そして、勝手に共感したのだ。「一見普通に見えるけど、そうじゃない。『普通の人』なら難なくこなすことができない」という点で。  なんという傲慢さだろう、と、今なら思う。和樹の大学の琴乃だか琴音だかいう女の子のことをとやかく言えない。  香椎先輩は物静かな人だったが、頑固な側面もあった。そもそも幽霊部員ばかりの美術部のこと、誰も来ない美術室で毎日一人黙々と絵を描くような人なのだから、頑固で当然だったろう。それを指摘すると「来てもおしゃべりばかりだから来ないほうがマシ」と言いのける気の強さもあった。 「絵が描けるのってすごいと思うけど、どうしてこんなに人気ないんですか。」  ある日そう尋ねると、香椎先輩は油彩は人気がないのだと答えた。絵が描きたい奴はたくさんいるけれど、彼らが描きたいのは漫画やイラストだから漫研やアニメ同好会のほうに流れてしまう、と。そう言う先輩は水彩も油彩も描いていたが、風景画ばかりだった。 「特にこんな絵なんか、あまり需要がないよね。」  結局完成を見ることができなかった海の絵。でも、先輩が描いた中で、その絵が一番好きだった。絵の中の海は先輩の思い出があるのだろうか。そこに一緒に行きたい。そんな思い出を一緒に作りたい。その浜辺を手を繋いで歩いたり、潮風になびく先輩の髪に触れたりしたい。  そう思った途端にどうしようもない罪悪感に見舞われた。  好きなのだ。俺は、この人が。同性愛者じゃないと思い込もうとしたけれど、そんな努力が虚しくなる程に。

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