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第886話 sinner(2)

「僕だって人物画も描けるようにはなりたいとは思うんだけど、自画像なんか恥ずかしいし、描きたいと思うような人もいなかったから。」  先輩はそう言って振り向いて、背後に立つ俺を見上げた。 「もし、誰かを描くとしたら」先輩はそこまで言って黙ってしまい、またキャンバスに目を向け、「まだ、無理かな。」と呟いた。  見上げた時の先輩の目には俺が映っていた。もし誰かを描くとしたら。言いかけたその続きが、俺には分かっていた。  先輩も、きっと、俺のこと。  嫌われてはいないだろう。それは分かる。穏やかそうに見えて意外と気の強いこの人のことだ、嫌がっているならそうと分かる。きっとかなり好かれているのだと思う。でも、その「かなり好き」は、後輩を可愛がる気持ちや熱い友情とは違うのか。自分が先輩に対して抱く「好き」と同質のものなのか。その確信は持てなかったし、確かめる勇気もなかった。  確かめてしまったら、それがノーでもイエスでも、立ち直れそうにない。拒否されるのはもちろん、僕も好きだよと言われたら、二人して破滅してしまうと思った。だって、同性愛は「悪いこと」だから。  世の中からはじかれているのは俺だけでいい。俺が異端なんだ。俺は先輩に共感なんてしていい立場じゃなかったんだ。  良心さえあれば、罪だと知っている悪事は働かない。そう思ってた。それが悪いことだと知った自分は、もう同性を好きになったりしないのだ。そう信じてた。  でも、そうじゃない。罪だと分かっていてもどうしようもないこともあるのだ。生きている限り、犯し続けてしまう罪があるのだ。だから渉先生は、自らそれを終わらせたのだ。  沖に向かって足を踏み出した瞬間のことは今でも思い出せない。思い出せるのは断片的な記憶。何時間も漕いで重くなった自転車のペダル。遊泳禁止区域の立て札。夏の日差しでひどく熱い砂浜。その熱を覚えているのだから、靴は脱いだのだと思う。次に覚えているのは腰ほどまで海水に浸かるあたりで大きな波が来て、頭から水をかぶった瞬間。波に身体をもっていかれて、バランスを崩した。そのまま身を任せればいいはずなのに、反射的に懸命にもがいて体勢を立て直す自分がいた。  その後のことは和樹に話した通りだ。人並み以上に泳げる自分は、海じゃ死ねないと思った。それから、先輩の描きかけの絵を思い出した。俺が海で死んだと知ったら、先輩はどう思うだろう。あの海の絵を前にして、俺のことを思い出さずにいられるだろうか。気にせず続きを描けるだろうか。いいや、辛くて描く気になれない、そう思ってくれる程度には、好かれていたはずだ。  それらはどれも言い訳だったかもしれない。単純にリアルに死を感じたら怖くなった、それだけのことだった気もする。  死にたくない。怖い。  無我夢中で浜辺に戻った。そして、許してください、と思った。やっぱり死ねませんでした。でも、許してください。何もかもなかったことにしますから。何もかも忘れますから。  そうして俺は忘れたのだ。香椎文彦という人を。 ――和樹が救ってくれた、あの日まで。  香椎先輩への、渉先生への想いを否定しなくてもいいのだと和樹は言った。それらすべてが今の俺を作っていて、そんな俺が好きなのだから、と。罪ではなく、罰でもないのだと教えてくれた。  川島綾乃を始めとした「元カノ」たちが今の和樹を作ったなんて、俺だったら思いつきもしない。そうは言っても出会わなければ良かったと思う相手だっているんじゃないのか、と思う。けれど和樹は哲でさえ、柴でさえ、昔住んでいた家の隣人でさえ、自分を作った「何か」だと言う。プラス思考にも程がある、と呆れつつも、その和樹の絶対的な寛容があったから、自分は自分を受け容れることができた。  自分だけじゃない。渉先生の愚かさを。香椎先輩の弱さを。和樹の言葉が、得難い愛情へと昇華してくれた。 ――俺はおまえに何がしてやれるのかと思うよ。何でもしてやりたいと思うけど、おまえからもらったものが大き過ぎて、それに見合うものなど何もない気がする。今までの出会いのすべてが俺を作っているのだとしても、今、俺を生かしているのは間違いなくおまえだよ、和樹。  涼矢は何も映し出していないスマホの画面を眺める。  中学の卒業アルバムなら本棚にあるはずだ。でも、学年が違うから香椎先輩は載っていないだろう。思えば渉先生にしても香椎先輩にしても、「一緒に過ごした」痕跡は何一つ残っていない。今となってはそれで良かったとも思うが、和樹との記憶までもが、いつかこんな風に何もなかったようになってしまうのだとしたら淋しい。でも大丈夫だ、と涼矢は思う。部活の記録。高校の卒業アルバム。Pランドで撮った写真もある。スマホにはメッセージの履歴が残っているし、それから。

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