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第887話 sinner(3)

 涼矢はスマホを手に取り、画像フォルダを開く。先日、和樹の部屋に一泊だけした時に撮った写真はすぐに出てきた。上半身を脱いで撮ったから鎖骨まで露わな二人が、キスを繰り返している。こんなのを誰かに見られたらまずい。後で別の媒体に移しておかなくちゃ。そう思いながら順繰りに見る。 ――可愛い。愛しい。  画像の和樹にそれ以上の言葉が浮かばないのが悔しい。和樹の表情は、唇を重ねていながらもうっすらと笑みを浮かべている。よく見れば自分もだ。まるで世界一幸せな恋人同士のようだ。実際、和樹と肌を重ねている時はそう思っている。  涼矢は画面の和樹に触れ、指先で拡大表示する。 ――おまえもそう思ってくれたらいいんだけど。  こんな風に自分が幸せになれるとも、ましてや誰かを幸せにできるとも思えずにいた日々。  香椎先輩もきっとそうだった。そして、今は幸せだという。良かった、と思う。会うことはないと思うけれど。  こんな風に他人の幸福を素直に喜べることが嬉しい。それは自分もまた幸せであることの証だからだ。 ――そう、だから、おふくろにも、親父にもその証を見せたいんだ。  涼矢は結論を先延ばしにしたままの件に思いを馳せ始めた。  学園祭を終えると、季節はあっという間に冬へと変わった。学生たちはテストを終えた順に冬休みを迎える。ただ、和樹は塾の冬期講習の関係で、やはり年末ギリギリまで帰省できそうになかった。 「今年の小六は中学受験組が多いから、受験対策のクラスの定員を増やしましてね。」  久家が言った。独特のテクニックが必要とされる中学受験対応の特進クラス。和樹はまだ任せてもらえない。とはいえ従来は一般クラスと特進クラスとでは二対一で一般クラスが多かったが、今回はその比率が逆転する。その一般クラスのとりまとめは和樹がやることになり、それなりに責任は重くなった。 「年末の三〇日まで授業がありますが、大丈夫ですか?」 「はい。」  受験クラスも年内は同じ三〇日までだが、年明けは早くも三日から授業が再開する。一般クラスは六日からだ。大学の休みがいくら長くても、最大で六日間しか帰省していられないことになる。成人式まではいられない。  年明けのシフトは調整するから成人式に出席してきなさい、と早坂も久家も言ってくれた。だが、断った。 「いえ、いいです。どうせ俺、誕生日前で同級生と飲んだりできないし。それに、実は……。」  和樹はここ数日、涼矢や両親と話し合って出した結論を伝えた。  大学の春休みは、試験の日程にもよるが、早ければ一月の末、遅くとも二月の半ばから始まる。塾の年度替わりは学校よりも早くて二月にやってくる。そして、四月からの新学年の内容を先取りで学習するのだ。 「二月の年度終わりのタイミングで、こちらを辞めさせていただこうと思っています。」  久家も早坂もそう驚かなかった。座って聞いていた森川だけが「えっ」と声を上げて振り向いた。 「就職活動に本腰を入れたい、といったところですか。」  と早坂が言った。 「はい。……教職課程もあるし、教員の道も考えてなくはありません。でも、一般企業も並行して考えていて。」 「そうですか。残念ですが、都倉先生の大事な時間ですからね、そうと決められたのでしたら、私たちは応援するのみです。」 「ありがとうございます。」 「良い先生になれると思いますよ。」  久家がにこにこしながら言った。 「はい。ここでの経験が生かせたらいいなと思ってます。」 「そうですね。でも、学校と塾とでは全然違いますから、ここのやり方が通用するとは思わないほうがいいです。」久家は笑顔を崩さないまま釘を刺す。かと思えば「まあ、都倉先生ならどこ行っても大丈夫な気がしますけどね。」とフォローも忘れない。 「二月まではよろしくお願いします。冬期講習も。」  早坂が言い、和樹は「はい、こちらこそお願いします」と言いながら、いつもより深めに頭を下げた。  塾のアルバイトを辞めよう。和樹がそう考え出したのは学祭が終わってひと月ほど経過した頃だ。周囲には短期留学に行く者や資格取得にいそしむ者も増えてきた。特に渡辺は相変わらず就職セミナーやインターンなどに励んでいる。アナウンサー志望の舞子が、テレビ番組の小さなコーナーのリポーターに抜擢されたという話も飛び込んできた。  そんな中、「何から手を付けていいのか分からない」というのが正直な心情の和樹だった。 ――とりあえず落ち着いて考える時間を作ったほうがいいんじゃないの。  今から資格を取るなら何がいいだろうか、車の免許も取りたいが時間も金もない、そんなことばかりを口にする和樹に涼矢が言った。 「でも。」 ――仕送りだけでもなんとか暮らせるんだろ。だったら、ちょっと落ち着いて、ボーッとする時間作りなよ。今、空いてる時間ぜんぶバイトしてんだろ? 声も疲れてるし。 「……うん。小嶋先生、またちょっと体調崩してて休みがちだから。」 ――でも、何が何でもおまえじゃなきゃダメだってことでもないんだろ? 「まあね。」

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