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第889話 cocoon(2)
――別に? 和樹さんは放っておくと全然帰ってこようとしないからさ、会いたくないのかと思ったってだけ。
「んなわけねえだろ。」
――でも、俺が言うまで、バイト詰め詰めだっただろ。
「だから、逆だろ、逆。おまえに会うために先立つものが必要って話だろ。」
――どうだかね。
「あのね、おまえは金の苦労してないからそう言うけど、何するにしても金はかかるんだよ。俺だっておまえみたいに、ここぞって時には飛んでいれるようにしておきたいの。それには金が必要なの。分かる?」
――じゃあ俺が金出すからすぐ来いよ。
「あのねえ?」
涼矢は笑った。
――はいはい、分かってるよ。今のは冗談。
「おまえの冗談は分かりづらいんだよ。」
そう言いながら、和樹は思う。そもそも涼矢が冗談を言う人間だと思っていなかった。表情のバリエーションも少なくて何を考えているか分かりにくい。かつてはそう思っていた田崎涼矢という男は、よく笑い、時に泣き、冗談も言えば理詰めで文句を言ったりもする、感情豊かな男だった。とはいえ相変わらず面倒くさいところはあるけれど、ただ、今ではこんな電話越しの声からだって、伝わってくるものはある。――和樹、好きだよ。うるさいほどに流れ込んでくるのは、涼矢のそんな感情だ。
――塾辞めたら、明生は淋しがるね。
ふいに涼矢が言い出した。
「明生か。どうだろう。最近はそんなに頼りにされてないからなあ。」
ディズニーランドの一件以来、明生とはつかず離れずの関係だ。出会った頃の距離感に戻ったようで、そうでもない。それは涼矢も同じだった。
――たまーに連絡くれるけど、最近は行きたい高校のことも考え始めてるみたいで。こどもの成長って早いよね。
「親戚のおっさんみたいなこと言うなよ。」和樹は笑う。
――それならよかった。
「は?」
――親戚のおっさん程度のポジションになりたかったから。
「……ああ。」
――彼には余計なものまで見せちゃったけど、それ含めて、そんな俺でもそこそこ幸せに生きてるんだから、明生は明生のままでいいんだってことをさ。
「うん。伝わってると思うよ。」
――だといいけど。
たとえばあの、外国で活動していたという叔父さん。一見気ままなアウトローだったその人に、涼矢はきっと、知らず知らずに勇気をもらってた。そういう存在に自分もなりたいのだろう。
「しっかし、俺は聞いてないぞ、明生の志望校なんて。」
――いや、そこまで具体的な話はしてないよ。東京の高校の名前言われても、俺、知らないしさ。高専にも興味あるとか、そんなことを聞いたぐらい。
「へえ、高専か。それもいいかもな。」
――東京はいいよね、選択肢たくさんあって。俺らなんてさ、志望校は成績でほぼ自動的に決まっちゃうもんだったじゃない?
「そうだな。中学受験も普通だしな。……でも、選択肢がありすぎるのも大変だよ。なんでもかんでも自分で判断しなくちゃならなくて、そのくせ失敗すれば自己責任って言われるし。俺みたいな、ふわふわーっと周りに合わせて生きてきた人間にはハードだわ。その意味じゃ、おまえのほうが東京に向いてるかもな。目標もはっきりしてるし、人に惑わされないし。」
――周りに合わせられるのも才能だと思うけど。俺はそれができないからこうなってるだけで。
「涼矢くんはフォローが上手いねえ。ありがとよ。」
――や、別に、本心で言ってる。
「はいはい、どうも。」
――それに、目標はちゃんとあるだろ?
「……ああ、うん。そうだな。」
おはようとか、ただいまとか。そんなことを言い合える暮らしを、二人で。
二人はお互いの心の内でその目標を反芻した。
和樹よりも半月ほど遅れて、塾の近隣の小中学校が冬休みに入り、その翌日には冬期講習が始まった。和樹は明生に進路のことを尋ねたいと思っていたが、今年の冬期講習では明生は難関の応用クラスのほうに入り、和樹の受け持つ授業はない。結局顔は会わせても挨拶をする程度でタイミングが合わず、何も聞けずじまいだ。
「久家先生、塩谷から進路相談みたいなの、ありました?」
そんなことを聞いたら、塾では御法度の「個人的な連絡」を取り合っていることを疑われてしまうかもしれないが、最後の手段で聞いてみる。幸い、前から明生が和樹を慕っていることを知っている久家は、特にいぶかしがる様子はなかった。
「定期的な面談では聞いてますよ。まだ一年生ですからそんなに深刻なものではありませんが、四年制大学にはこだわってないから、進学校じゃなくてもいいと言ってましたね。でも、お母様は、できれば、それなりの大学進学まで視野に入れた高校を目指して欲しいようです。親子の意見のすり合わせのためにも、学校説明会等の機会を利用して実際に足を運ぶようお勧めしました。一年生の今なら学校選びにも時間的余裕がありますから、焦らずいろんな学校が見られますしね。」
「俺、高校受験の時、そこまでしてなかったですけど。……あ、東京だからか。学校いっぱいありますもんね。」
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