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第72話 彼らの事情(12)

 アイロン掛けが済むと、ベッドの上にはシワひとつない、淡いブルーのシーツが広がった。 「おお、きれい。」 「本当は糊付けまでしたいぐらいだけど、どうせそんなものはないだろうし、今日のところはこれぐらいで勘弁してやろう。」 「いやいや、充分だよ。」和樹は涼矢をチラリと見る。「この状態がいつまで保てるか、知らないけどね。」 「別にベッドでやんなくてもいいだろ。」 「は?」 「立ってやるとかさ。」 「シーツのためにか?」 「そうだよ、少なくともさっきのシーツ、洗って乾くまで、こっちは汚すな。」 「無理。そんなの、本末転倒。」 「本末転倒って言葉の意味、合ってるか?」 「合ってるよ、シーツなんて、汚すためにあるんだ。」  勢いで口から出まかせを言ったに過ぎない和樹だが、涼矢は「ふむ。」と顎に手を当て、「一理ある」とでも言いたげだ。 「確かに、誰の足跡もない雪こそ、踏み荒らしたい欲求が湧くものではあるな。」 「何その、きれいな言い方。」 「前言撤回で、汚しても乱してもいいよって言ったんだ。」 「おまえが言うといやらしいな。」 「いやらしい意味で言ってる。」 「そりゃ楽しみだ。」  その時、急に外が暗くなった。かと思うと、一瞬明るくなり、しばらくして雷鳴が聞こえてきた。それと同時に大粒の雨が降り出した。  天気予報が当たったのだった。 「そのシャツ。」涼矢はさっき和樹と話題にしていたシャツを見つめて、言った。「着ないなら、俺に貸してよ。」 「え、いいけど、着られる? おまえ俺よりサイズ大きくなかったっけ。」以前、間違えて涼矢の制服のシャツを着てしまった時に、それを知った。 「袖丈が人より長いだけだから、半袖なら問題ないと思う。胸囲は俺のほうが細い気がするし。」 「着てみれば?」  涼矢は着ていたTシャツを脱いで、そのコットンシャツを着た。白地に、青の細いストライプ。遠目に見ると全体的に青みがかった色に見えた。 「どう?」 「全然OK。サイズぴったりだし、似合うよ。やっぱ俺より細いんだな。」 「じゃ、明日、これ借りよう。」 「やるよ。」 「え?」 「気に入ったんなら、あげる。俺がそれ着られるようになるの、いつになるか分からないし。」 「大事なママズセレクトだろ?」 「いいよ、別に。おふくろ、いいの見つけたからって時々勝手に送りつけて来るんだ。だからそうやって、サイズが合わない時がある。」 「じゃ遠慮なく。サンキュ。」涼矢ははにかんだように笑った。 「そういうのも、彼シャツって言うのかな。」  涼矢は洗面所に行った。鏡がそこにしかない。それに映る自分の姿を見て、言った。「女の子が彼氏のシャツ着ると、ダボダボで、ワンピースみたいになっちゃって、より一層小さく愛らしく見える……というのが彼シャツだよな?」 「その定義で言うと、違うな。」 「違うね。」 「俺のシャツを着てると思うと、愛らしくはあるけどね。」 「はは。じゃあ、彼シャツでいいんじゃない?」涼矢はすぐに元のTシャツに着替え直した。  外はまだ薄暗く、激しい雨が降っている。ベランダにはささやかな屋根があるのに、窓にまで叩きつけてくる雨粒。 「そう言えば、傘、持ってこなかった。」涼矢が呟いた。 「俺も1本しかねえや。」 「明日も雨だったら、相合傘か?」 「彼シャツ着て、相合傘。いいんじゃない、それ。」和樹は自分でそう言って、自分が先に笑った。「でも、無理だよ、小さいビニ傘だもん。ま、その時は俺がコンビニまでひとっ走りして、もう1本買ってくる。」 「このへん、コンビニいっぱいあるもんなぁ。」 「だからつい、コンビニ弁当で済ませてしまう。」 「コンビニのせいにするんじゃないよ。貧乏人こそ、自炊しろ、自炊。」 「はぁい。」 「絶対しない返事だな。……さて、と。」 「何、まだなんかするの?」 「勉強。せっかくテキスト持ってきたのに、何もやってない。」 「マジで? 俺といるのに?」 「明日も明後日もいるよ。」 「でも、さ来週とか来月はいないだろ!」 「ちょっとだけだよ。1、2時間。」 「つまんない。」 「ガキか。おまえも何かあるだろ、やること。塾の準備とか。……そういや、週明けに説明会があるって言ってなかった?」 「あるよ、来週の月曜日に。」 「来週って、来週のことか。土曜日に言ってたから、今週のことかと思ってた。」 「来週だよ。28日。それが終わらないと準備も何も分かんないから、今やることない。」 「町内ランニングでもしてこい。」 「この雨の中?」 「夕立ちだ、すぐ晴れる。ほら、もう、あっちの空、明るくなってきた。」 「なんでそんなに邪魔にするんだよ。俺んちだぞ。」 「読書でもなんでもしてろよ。テレビ見るならイヤホンしてくれ。」涼矢は和樹に構わず、テキスト類をテーブルに広げた。 「あたしと勉強とどっちが大事なのよっ!」和樹はそんな涼矢の背中にしなだれかかる。  涼矢はくるりと振り向いて、和樹の両頬を包むように手を当て、キスをした。「もちろん和樹だよ。良い子だからおとなしくしてて、ダーリン。」  和樹は毒気を抜かれた表情になる。それでもしばらくは涼矢の背中にひっついていたが、やがて諦め、涼矢から離れてベッドに横たわり、漫画雑誌を読み始めた。

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