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第84話 モトカレ(1)

 哲との約束では、直接店に集合することになっていた。余裕を見て家を出たら、電車のタイミングもよく、迷うこともなくたどりつけて、約束の時間の10分前には着いた。  10分前なら入店して待ってもいいだろうと判断して店に入ると、予約時の名前を聞かれた。 「哲の名前か……。」涼矢は困惑する。フルネームを覚えていないことで、こんなところで窮地に立たされるとは。「えっと、浅井だか碓井だか、そんな感じの名前で入ってませんか?」とダメ元で聞いてみる。  店員は予約状況のノートを確認して「アサイ様もウスイ様もありませんね。」と言った。「18時からは3組のご予約いただいていますが、タカギ様、アソウ様、田中工業様、こちらは会社様で団体でいらっしゃいますから、違いますよね。」 「あ、二つ目、なんですって?」 「アソウ様。」 「それだと思います。4人で。」 「はい、アソウ様は4名様でご予約いただいております。では、アソウ様のお席へご案内でよろしいですか。」 「はい。」 「違ったらどうするんだよ。」と和樹は小声で言う。「彼氏の名前がタカギかも。」 「いや、麻生で合ってる。聞いたら思い出した。」  案内された席に座ると、和樹は「浅井と麻生じゃ全然違うだろ。」と呆れた。 「そうかなぁ。結構惜しいと思ったんだけど。」 「テツは合ってるのかよ。」 「それは間違いない。テツヤなのかテツロウなのかは知らないけど。テツはつく名前のはず。哲学の哲って書く。ほら、これ、名前聞いてすぐ登録したから。」そう言いながら、涼矢はスマホの登録名を見せた。そこには「哲」の1文字。 「名前聞いてすぐにフルネームで登録しろよ。」 「だって本人が『哲って呼んで』って言ってたから。」 「源氏名じゃないの、それ。」 「さあ、それは知らない。」 「まったく。」  そんな会話をしていると、「よ、久しぶり。」と声が聞こえてきた。 「おう。」と涼矢が片手を上げた。 「待った?」 「そうでもない。」  この男。この男こそが、その、麻生哲ナントカ。和樹は睨んでしまわないように気をつけながら、じっと見た。  一方の哲は、にこにこと柔和な笑顔を浮かべ、敵意も警戒も全く感じさせない。好青年、そんな表現がぴったりだ。 「わあ、本当にイケメンだなあ。」それが和樹に対する最初の言葉だった。 「はい?」 「田崎が、自分の彼氏はイケメンだイケメンだって自慢するからさ。」 「自慢なんかしてない。」と涼矢が口を挟んだ。 「イケメンだって言ってたじゃん。」 「それは自慢じゃない。客観的事実を説明しただけ。」 「ね、ほら、この調子でさ。」哲は和樹に人懐っこい笑顔を見せる。背は和樹より低い。目線の具合からすると170cm前後だろう。いわゆる中肉中背。白Tシャツの上にチェックのシャツを羽織って、ジーンズ。特別お洒落と言う感じでもなければ笑っちゃうほどダサくもない。髪が多少茶色いぐらいで、その他に目立つ要素はない。 「あ……都倉です。都倉和樹。今日は、よろしく。」和樹は先手を打つ気持ちで、挨拶をした。 「そうだ、そういうのやってなかったね。哲です。」 「麻生、哲くん?」 「正式には、麻生サトシ。哲学の哲って書いて、サトシ。でも小さい時から哲とか哲ちゃんとか呼ばれてたから、哲で。」 「おい。」和樹は涼矢の脇腹を肘でつついた。「全部違ったぞ。」 「ん? 何が? ていうか、座ろっか。」哲たちが姿を見せた時、和樹たちも立ち上がって、ずっと立ち話状態だった。哲の一声で改めて席に着いた。 「で、彼は、彼氏さん?」和樹は哲の隣の男を見ながら哲に聞いた。その男は20代半ばぐらいに見えた。髪は短く整えられていて、フチなしの眼鏡をかけていて、至って真面目そうだ。何よりビジネススーツにビジネスバッグ姿だ。学生には見えないが、バーの店長にも見えない。ごく普通の若いサラリーマンにしか見えない。 「倉田です。」とだけ男は答えた。 「彼は、元カレかな。今は友達。」哲は無邪気にそんなことを言った。「でも、たまにエッチするけどね。」 「引いてる。」と倉田が言った。和樹の様子のことだろう。 「あ、そういうのダメな感じ? だよね、田崎の彼氏だもんね。そっか、2人とも真剣なんだね。ごめん、俺はこんな感じで、割とフラフラしててさ。」 「割と、じゃない。」倉田がボソボソと喋る。  店員がやってきて、水とおしぼりを配る。「90分食べ放題コースでご予約いただいていますが、みなさんお揃いでしたら、スタートでよろしいですか。」 「あっ、はい。」哲が答える。 「食べ放題は90分ですが、ラストオーダーは20分前となっております。お飲み物のご注文はお決まりですか。」 「俺、コーラ。みんなは?」 「ウーロン茶。」と涼矢。 「俺もウーロン。」と和樹。 「じゃ、俺も。」と倉田。 「ヨウちゃん、ビール飲めば。」哲は倉田をヨウちゃんと呼んだ。 「みんなこどもだろ。俺だけ飲むのは。」 「こどもって言うなよぉ。」哲は倉田に向かって口をとがらせる。「いいよ、別に飲んでも。車じゃないし。」 「気にしないで飲んでください。」と涼矢が口添えした。バーベキューの時、ミヤさんは1人だけの成人だったが、周りに構わず飲んでいたな、と思い出しながら。あのビール、自分で持ち込んだのだろうか。 「そう? じゃ、飲もうかな。生をひとつ。」倉田は店員にオーダーを伝えた。  続いて、オーダーバイキング方式だったので、肉類の注文もした。それも倉田がみんなの希望を取りつつ、店員に伝えてくれた。ボソボソと喋る男ではあるが、他人と喋るのが苦手というわけではなさそうだ。 「えっと……学生じゃないですよね。」と和樹が倉田に言った。 「普通のリーマン。文具関連の会社で営業やってる。」 「会社帰り、ですか。」 「うん。今日は直帰OKだったんで、早く上がれた。でなきゃこの時間に吉祥寺とか。」 「あ、忙しいとこ、すいません。」 「いやいや、そんな意味じゃないけど。哲が友達に会わせたいなんて言うの、初めてだったしね。楽しみにしてきた。おっさん混じって悪いね。」 「や、全然おっさんじゃないし。」  その時、飲み物が運ばれてきた。

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