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第88話 モトカレ(5)
セックスできないだけで大事な人。お互いの気持ちが分かり過ぎて、何もできない。その言葉を聞くまで、打算だけで結婚するなんて、と軽蔑する気持ちが和樹にはあった。――けれど、そんな単純ではないのだ、きっと。そういう関係もあるのだ。俺と涼矢を特別な奇跡だなんて言わないでほしいと思うなら、倉田夫妻だって特別なものじゃない。結びつき方なんて人それぞれで良いんだ。さっき自分が吐いた言葉が返ってくる。
「煙草、いいかな?」倉田は椅子の背にかけていた上着から、煙草を出しながら言った。
「どうぞ。」涼矢が言った。和樹は曖昧にうなずいた。
倉田は通路側に体を向けて、斜めに座り直した。吐いた煙が和樹たちを直撃しないように。
「そっち向くより、これに向けたほうがいいんじゃない?」哲が言った。テーブルの鉄板の真上に、吸煙ダクトが口を開いている。
「食べ物の上に煙吐くみたいで、気分的に嫌だ。」倉田は足を組み、手にした灰皿に煙草の灰を落とした。「君ら、煙草吸わないでしょ?」
「吸わないです。」和樹が答えた。
「牛乳いっぱい飲んだ?」
「え? はあ、まあ、普通に。」
「だからそんなに背が伸びたのかな。」
「何の話。」哲が笑って言う。
「俺、15、6の頃から吸っててさ。牛乳も嫌いで。だからいけなかったのかな。」倉田は哲より更に背が低い。
「あんまり関係ないんじゃないですか。うちは、親も背が高いほうなんで。」
「やっぱり遺伝か。……だからね、俺は、こどもは要らない。」
「チビが遺伝してほしくないから?」哲はそう言うが、倉田は165cm前後に見える。そこまで言われるほど低くもないだろう、と和樹は心の中で少しばかり倉田に同情した。
「チビも含めて、俺みたいな人間を再生産したくない。」
「男だったらヤバイよね、クズのヤリチンの息子なんて。」
「娘だったらもっと嫌だよ。クズビッチなんて、まんま、おまえみたいになるわけだろ。そら親も先生も泣くわ。」
「でも、遺伝子の半分は奥さんだし。」和樹は助け舟のつもりで言ったが、言ってから全然そうはなっていないことに気付く。
「チビッコ美少女ビッチのビアンなんて最高じゃん。」哲は笑う。
「賭けだな、そんなの。そんな賭けに人生張れるかよ。」倉田は最後に大きく息を吐くと、灰皿に煙草を押しつけた。それからテーブルの上を見渡して「あ、もう肉ないね。次、何行く?」と言った。
倉田のその言葉には、こどもの話はこれでおしまい、という意志が感じられた。
その後は、他愛のない雑談に終始した。他の友達と話すのと大差ない内容だ。違うのは、女性に関する下ネタは一切出てこないということだけ。世間を騒がす時事ネタ、芸能ネタ、スポーツの試合結果の話もすれば、バイト先の話、大学の話、仕事の話もした。哲と倉田は、普段、ほとんどそういった「日々の生活」について話すことはないようで、2人してお互いの話を「初耳だ」「知らなかった」と言い合っていた。今でこそ距離は離れているが、ずっと同じ環境で過ごしてきた和樹たちにとって、哲たちのそんな関わり方は新鮮に映った。哲たちにとっても、同じだったろう。
「都倉くんちは、吉祥寺なんだよね? この近く?」哲が聞いてきた。
「西荻窪の駅のほうが近い。」
「へえ、いいとこ住んでるね。田崎も、こっちいる間はそこに?」
「ああ。」涼矢が答えた。
「楽しそう。いいな。」
「俺んちに転がり込んでおいて、失礼だな。」倉田が言う。
それを無視して哲が言う。「都倉くんち、ワンルームでしょ?」
「うん。狭いよ。古いし。」
「それがいいじゃん。狭いワンルームでさ、2人っきりで。そういうのが楽しいじゃん。ヨウちゃんちのマンション、ファミリータイプで広すぎて落ち着かない。インテリアもやたらおしゃれで。生活感ないよね、あそこ。」
「奥さんは基本彼女のとこにいて、ほぼ俺の一人暮らしだからな。その俺もあんまり家にいないし。汚れる暇がない。」
「そうなんだよ。だから俺、今回もあの家にひとりぼっちの時間多くてさあ、ヒマヒマで困ったよ。昼間、誰か連れ込んじゃおうかと思ったもん。」
「そんなことしたら、一生出禁だからな。」
「してないじゃん! だからさ、田崎に誘われてヤッターって思った。もっと早く声かけてくれれば、もっと一緒に遊べたのに。」
「いや、それはない。」涼矢が言う。
「え?」
「会う時期は早まったかもしれないけど、もっと一緒に遊ぶことにはならなかったと思う。」
「なんでさ。」
「狭いワンルームで2人きりが楽しいからに決まってるだろ。なんで東京まで来て哲と遊ばなきゃならないんだよ。」
「ぷっ。」倉田のほうからそんな声がした。声を上げずに、倉田は笑い続けた。
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