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第891話 cocoon(4)
「潔癖ですか。」
和樹は思わず笑ってしまう。高校を卒業して二年。今となっては遠い昔のようにも思えるが、久家にしてみれば「たったの二年」だろうし、実際、当時を思い出すことは難しくない。その記憶の限りでは自分が「潔癖な高校生」だったとは到底思えない。
「潔癖というのはですね、不道徳なことが許せないとか、欲望を滾らせてばかりいるとか、そういう意味ではありません。」和樹の笑いを諭すように久家が言う。「自分の知っているルール以外はありえないと思う狭量さ、とでも言えばいいでしょうか。目玉焼きにはソースをかけるものだと思っている人が、しょうゆ派の人間の存在を許しがたいと騒ぐようなものです。私と小嶋はそういったところでは正反対のことが多いので、学校生活しか知らない年頃では衝突ばかりしたと思いますよ。」
「社会に出たら変わったということですか?」
「そうですね。社会って理不尽なことばかりですから、自分基準のルールだけでは対応できないことがたくさんある。よく言えば臨機応変に、悪く言えば妥協して、他人のルールも呑み込まなきゃならない。そういう経験を経て、自分とは違う価値観を認められるようになったと思います。高校ぐらいだとね、認めるというと、自分もその価値観に染まらなきゃならないと思っていました。でも、だんだんと、私とあなたは違うやり方だけど、私もあなたも同じぐらい正しいですよねって、そんな風に思えるようになりました。」
「俺、目玉焼きは近くにあるものかけるんです。しゅうゆならしょうゆだし、ソースならソースだし、塩コショウでもいいやっていう。」
「合理的ですね。」久家は笑った。
「で、あの、つきあってる奴もそういうとこは似てて。と言っても向こうは自分で料理をよくするんで、他の献立とのバランスで考えてその都度変えるって意味で、俺みたいに何でもいいのとは違うんですけど、臨機応変に変えるってとこは同じで。」
「田崎くんですよね、覚えてますよ。その節はどうも。……価値観が合うならそれに越したことはないですよ。」久家と涼矢は小嶋の母親の葬儀の際に会っている。
「他のことは結構違うんですけど、食べ物の好き嫌いは似てると思います。それってつきあう上では結構大きいですよね。」
「そうですね、食べ方も含めてね。」
「そう言えば二人ともシェアが苦手かも。」
そんな雑談をしながら、和樹はふと哲のことを思い出す。正直、哲の食事マナーはあまり良いものではなかった。自分だって、涼矢の父親に連れられて行った高級フレンチ店でどれほどの正しい振る舞いができたか自信はないが、そういうレベルとは違った。箸も妙な持ち方をしていたし、時にいわゆる犬食いのようにして食べていた。哲自身、自分にはそういった基本的マナーが備わっていないと言っていた。幼少期にそういう躾をしてくれる存在がおらず、いただきますという挨拶すらも身に着いていないのだ、と。
「お互いの育ってきた環境の根本的な違いが如実に表れますし、生きている限りは無視できませんからね、食の好みや食べ方というのは。ま、私はマヨネーズ派で小嶋はタバスコ派なんですが。」
「タバスコ派?」
「目玉焼きにタバスコかけるんですよ、あの人。今は胃に負担がかかるから香辛料は控えてますがね。」
タバスコなぞ信じられない、という顔で久家は言う。和樹もタバスコは初めて聞くが、マヨネーズ派もどっこいどっこいではないだろうか、とも思う。
「何の話をしていましたかねえ。ああ、そうそう、塩谷くん、高専や単位制の高校も紹介しましてね、高専に興味を持った様子でした。」
涼矢が明生から聞いた話の出どころは久家なのか。そうと分かると、ひとまず安心した。自分を抜いたところでその話が出たのは淋しいが、そういう話ができる大人が複数いることは明生にとっては良いことに違いない。
和樹は帰宅後もぼんやりとそのことについて考え続けていた。進路のことなら、明生からまっさきに相談されるのは自分のような気がしていた。一時期よりは疎遠になったとはいえ、涼矢よりもずっと近くにいる。久家よりもずっと年齢が近い。それなのに自分には一言もなかった。――高校の先生になってよ。僕、先生がいる高校に入るから。就職先の選択肢のひとつとして「教員」が現実味を帯びたのも明生からのその一言があったからなのに、当の明生は忘れているのだろうか。
思えば菜月だってそうだ。中学受験に失敗した際、彼女が頼りにしたのは久家であり、早坂だった。和樹を前にした時には、彼女は既に立ち直った後だった。
「俺はそんなに頼りにならねえってか。」
そう独り言を言い、ベッドに勢いよく飛び乗った。
――涼矢にだってどうせ頼られてないし。
それは声には出さなかった。うつぶせになり枕に顔を押しつけて、自己嫌悪をその息苦しさに置き換えた。
そんなことを考える一方で、無性に涼矢の声が聞きたくなる。
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