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第97話 空蝉(1)
「どこって言ってたっけ。展覧会。」と和樹が言った。黄身がつぶれた目玉焼きは結局和樹が食べた。今はもう皿洗いまで済ませ、食後のコーヒーを飲んでいる。
「六本木か渋谷。」
「どっちのほうが観たい?」
「渋谷かな。」
「じゃ、渋谷行こ。渋谷のどこ?」
「ちょい待ち。」涼矢はスマホで展覧会のページを見せた。「ここ。」
和樹はチラリと見ただけで「分かった。」と言った。
「都会っ子。」
「だって、東急本店とこだろ? 一番シブヤシブヤしてるエリアだもん。マルキューとかの先。」
「マルキュー?」
「109。」
「あー、聞いたことある。」
「あれって、東急だから10と9で、イチ、マル、キューなんだって。」
「へえ。くりよりうまいじゅうさんりはん、みたいなものか。」
「ちょっと何言ってるか分からない。」
「焼き芋屋の屋台の看板に書いてあるだろう、十三里半。」
「何それ。」
「書いてあるんだよ。栗だから九里で、よりで四里で、9足す4で13で、もっと美味いから半つけて、十三里半。それだけ美味しい焼き芋ですよってことだ。」
「ふ、ふうん。」
「興味なさそう。」
「興味と言うか、何言ってるのか分からない。いや、興味もないです、すいません。」
「絵も興味ないだろ? 俺が展覧会を観てる間、和樹は映画でも見てる?」
「いや、一緒に観るよ。」
「悪いね。つきあわせて。」
「上野でも思ったけどさ、美術館とか、俺がいると邪魔? 気が散る?」
「え、全然そんなことないけど。」
「なんか、別行動取らせようとするよな。デートなのに。」
「興味ないものにつきあわせたら悪いって思っただけだよ。」
「俺だって、動物園つきあってもらっただろ。嫌だった?」
「全然嫌じゃなかったけど。」
「だったら俺だって嫌じゃない。」
「そか。」
「うん。それに。」和樹はふと壁に目をやった。今は日焼けを避けて外してしまったけれど、以前、涼矢にもらった絵を貼ってあったあたりを。「ゲージュツには興味ないけど、涼矢の目が、どういうものを観たがってるのかは、興味ある。」
「俺が観たがっているものというと」
「下ネタは禁止な。」
「……。」
「黙るなよ。……これ飲んだら行こう、渋谷。」和樹はコーヒーカップを掲げてみせた。
1時間後には、2人は渋谷のスクランブル交差点に立っていた。
「今日は祭りか。」さすがに本気ではないが、涼矢がそんなことを言う。
「俺も、この人の量にはまだ慣れない。」
「酔いそう……。」
「手でもつなぐか? フラフラしてたらはぐれるぞ。」
「マジでそうしてもらいたいぐらい。」涼矢は和樹のシャツの裾をつかんだ。
「いいよ、それで。」和樹はつかませたまま、歩き出した。
美術館の入り口が見えるところまでたどりついて、なんとか一息ついた。そこは人もそこまで多くはない。空調も効いている。ベンチがあったから、とりあえずそこに座った。
「ごめん、外す。頭痛い。」涼矢は、それでも一応和樹のリクエストのメガネをかけてきていたのだが、まだ長時間かけることには慣れていない。人酔いと暑さもあったのだろう、少々顔色が悪い。
「冷たい飲み物でも買ってこようか?」
「いや、ちょっと休めば大丈夫。」
「今日、暑いしな。熱中症にお気をつけてくださいって言ってたよ、テレビで。だからちゃんと休んだほうがいい。やっぱ何か買ってくるよ。」すぐ近くにレストランはあるが、なかなかの値段で、こんな状況で気軽に入るような店ではなさそうだ。和樹は1回建物の外に出て、コンビニでスポーツドリンクを買って、戻ってきた。
その頃には涼矢の顔色はだいぶ良くなっていたので、和樹はホッとする。
「悪い、サンキュ。」ドリンクを渡すと、すぐに飲み始めた。「ふう。生き返る。」
「良かった。」
「すっげダセエな、俺。人混みで具合悪くなるとか。」
「暑いし、それに……寝不足続き? みたいな? 相当疲れてるんじゃない?」和樹は含みを持たせた言い方をした。
「あー。それは否めませんな。」
「その意味では、半分は俺のせいとも言えよう。」
「その意味だったら、100パーおまえのせいだ。」ベンチに座っている涼矢は、立っている和樹を見上げた。
「ひでえなあ、スポドリ買って来てやったのに。」
「はは。」
「そんなこと言う余裕があるなら、大丈夫そうだな。」
「うん。もう平気。……和樹は? 少し飲む? ちょっとしかないけど。」涼矢がドリンクを軽く振った。
「ちょっとだけ。」和樹は涼矢からボトルを受け取り、一口二口、口にする。「もういいや。そろそろ、中、行けそう?」和樹は展覧会の入り口を示した。
「うん。」涼矢は残りを飲み干した。空いたボトルを捨てる場所を探したが、見当たらなかったので、バッグにしまった。
展示室に入ると、ひんやりとしていた。『作品保護のため、照明は暗めに、室温は低めに設定してあります』――という注意書きがしてある。だが、この涼しさが、今の2人にはちょうどよかった。とはいえ、周りの、特に女性客には少々寒すぎるようで、上着を羽織ったり、美術館で貸し出しているブランケットをまとっていたりする人も多い。
中には真冬のように着込んだ老婦人もいた。彼女は車椅子に乗っていて、それを夫と思しき老紳士がのんびりと押していた。和樹は、涼矢を含む真剣に絵画を観ている人々の列から離れて、なんとなくその2人を見ていた。
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