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第98話 空蝉(2)
時折、紳士は婦人の口元に耳を寄せて、彼女の言葉に耳を傾ける。その内容は聞こえないが、2人で絵をチラチラ見ている時はきっと絵についての感想を言っているのだろうし、紳士が夫人の膝にかかっているブランケットを直す時には、それがずれたから直してほしいという要求なのだろうと推測した。その光景自体が一枚の絵みたいだな、と和樹は思う。柔和な微笑みをたたえる老紳士と、明るく可愛らしい雰囲気の老婦人。たとえ車椅子の生活でも、お互いを労りながら、一緒に絵を見に来るような仲の良い夫婦。きっと結婚する多くの若いカップルが、年老いたらあんな夫婦になっていたいと願うことだろう。
「可愛いよね、あのおばあちゃん。」涼矢が小声でささやいた。近くにいるとも思わずにいた涼矢が急に話しかけてきたので、和樹はびっくりして危うく大きな声を出してしまうところだったが、どうにか抑えた。
「ああ、うん。」
「深沢のおばあちゃん、あんな感じなんだ。」それだけ言うと、涼矢はまた壁際に移動し、鑑賞する人たちの列に紛れた。
涼矢が何を思ってそんなことを告げに来たのかは分からない。余計なことを考えていなきゃいいが、と和樹は思う。たとえば、普通の男女のカップルだったら、あんな老夫婦になりたいという夢もかなえられるだろうが、俺たちの先にはそんなものはない……といったことを。でも、祖母と似ていることをわざわざ言ってきたからには、それとは反対に、老女に自分の将来の姿を重ねて、幸せな未来を思い描いているのかもしれない。更に言えば、言葉を額面通りに受け止めることも多々ある涼矢のことだ、自分の言葉も、「文字通り」の意味しかない可能性もある。可愛いと思ったから可愛いと言い、祖母に似てると思ったからそう言っただけ、という。……そのどれなのかは分からないけど、要は、今、そんなこと考えたって正解は分かりゃしないんだ。和樹はそう結論付けて、次の展示室へと移動した。
一通り観終わって外に出ると、また暑さと雑踏の圧力が押し寄せてきた。
「体調はどう?」和樹が聞いた。
「全然平気。でも、どっかで休憩しよ。足が疲れた。さっきのお礼に、俺がおごってやる。」
「休憩って、ホテル?」
「は?」
「近くにあるよ、そういうホテル街。さすが渋谷で、それはそれはたくさんの……。」
「バーカ。余計疲れるだろ。」
「疲れる前提なんだ。」
「それより、なんで知ってんだよ。」
「何を?」
「ホテル事情。」
「友達から聞いた。飲み会とかで、近く通ることもあるし。」
「利用したことないよな?」
「あるわけないでしょ。でも、すごいらしいよ、最近のそういうとこ。バリ島みたいなリゾート風だったり、アメニティが充実してたりして、オシャレなんだって。」
「へえ。行きたいの?」
「行きたいけど、今はいいや。」
「行きたいのかよ。」
「興味はある。おまえだってあるだろ?」
「俺は別に。」
「ヤレりゃいいのか。俺んちならタダだし?」
「端的に言えばそうだ。」
「俺には情緒がないとか言う癖に。」
「リゾート風とかオシャレとか……そのほうが、いかにも女性客取りこみに必死っぽくて、情緒ないと思う。」
「涼矢の考える情緒ある場所ってどういうとこよ。」
「それはやっぱり鄙びた温泉旅館じゃない? 訳ありな2人が偽名使って泊まる。」
「そこってきっと、殺人事件起きるだろ?」
「仲居に見られたりして。」
「ちゃららっ ちゃららっ ちゃーらー!」
「CM入ったね。」
「崖、あるね。」
「でも、絶対2時間以内には解決するね。」
「何の話してるんだか。……ここは?」和樹はカフェの前で止まる。
「いいよ。」
店頭の看板によれば価格帯はさほど高くない。店内は全面禁煙。和樹がそこを選んだ理由はそういったものだった。セルフサービスで、カウンターで先に注文する。
「なんか食おうかな。」と涼矢が言ったので、2人はそこでランチをとることにした。
「メシもおごってくれんの?」
「ああ。」涼矢が先に注文する。選んだのはパニーニサンドセットなるものだった。和樹は選ぶのが面倒で「同じやつ」と言った。「あ、俺、セットのドリンクはオレンジジュース。」と付け加える。涼矢はアイスコーヒーだった。
「あんまり美味くねえな。」涼矢はアイスコーヒーを飲んで顔をしかめた。「オレンジジュースのほうが良かったかも。」
「交換する?」
「いや、いい。」
「いいよ、俺、涼矢ほど味にこだわりないし。はい。」和樹はグラスを交換した。
「やけに優しいな、今日。」
「俺はいつも優しいだろ。」
「そうだけど……。」涼矢はオレンジジュースをストローで飲んだ。「うん、これもいまいち。」と言って笑った。
「もう取り替えてやんねえぞ。……でも確かに、このコーヒーはあんまり。」
「あの店のコーヒーが飲みたくなる。」
「涼矢スペシャル、ね。」
「うん。帰るまでにはもういっぺんぐらい行きたいな。」
「そうだね。」和樹はパニーニを食べる。これは意外に、それほど悪くない。「この後、どうする?」
「和樹は行きたいところある?」
「別にないけど、せっかくだから映画でも見ようか。」
「インド映画?」と言って、涼矢が笑う。2人の最初のデートで見たのはインド映画だった。上映時間の都合で、それしか選択肢がなかったのだ。
「手を握っても振り払わないでくれるなら、それでもいいよ。」あの時、和樹は女の子とのデートの癖で、帰り際にうっかり手を握ってしまった。そして、それを涼矢は振り払った。
「何のことだかさっぱり。」涼矢はそんな風にとぼけて答えたが、口元にほんのちょっとだけ照れ笑いが浮かんでいることに和樹は気づいていた。
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