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第101話 空蝉(5)

「タイミング悪い……。」と涼矢が言った。 「悪いほうに考えるなよ? これは、つまり、家でおまえが、俺様のために、美味いコーヒーを淹れるべきだという天の啓示だ。」 「そんなことでいいなら、神様だろうと俺様だろうと、言われなくてもやるけど。」  2人は改めてアパートに向かう。和樹は再び涼矢の手を握った。涼矢は驚いて和樹を見る。「さすがに、家の近所ではやめておいたほうが……。」 「俺がいいっつってんだからいいだろ。どうせ近所に知り合いいないし、おまえが迷子になったら困るから。」 「もう、道順覚えたし、迷子になんかならないよ。」 「なるだろ。すぐ、勝手な思い込みで、1人でどっか行こうとする。」 「……。」 「どこにも行くなよ。行くなら俺を連れてけよ。」和樹の声が少しうわずっていた。洟を少しすすりあげるような音もする。知らず、早足になってもいる。それらは、一刻も早く帰らないと、和樹が泣き顔をさらしながら近所を歩く羽目になることを示していた。  それだけはどうにか避けることができて、和樹たちはアパートにたどりついた。部屋に上がると、涼矢は早速コーヒーの準備を始めた。 「俺が泣かせた?」涼矢が恐る恐る、小声で言った。 「泣いてねえ。」和樹はぶっきらぼうに言う。そして、ベッドに腰をおろして、うなだれた。落ち着かない様子で手の指をくるくると奇妙に回しながら、ぼそりと言った。「なんで? 今日、ずっと、楽しくやってただろう? あのおばあちゃん達を見た後だって、おまえ、普通に楽しそうにしてたよな。あれって、演技? 本当はずっとそんなこと考えてた?」 「楽しかったよ。演技じゃない。」 「だったら、なんで。」 「逆にそんな……そこまで和樹が気にするって、思わなくて。冗談にして、笑い飛ばすかと。」 「笑えるかよ。」和樹はベッドの上に上半身を投げ出した。「俺、思ってたんだよ。美術館でさ、おまえがおばあちゃんに似てるって言ってきた時に。まーたどうせ余計なこと考えてるんだろうなって。俺たちはあんな風に一緒に年を重ねて行けないなんてことを、考えてるんじゃないかって。」 「……あたり。」 「俺のこと馬鹿だと思ってるだろうけど、俺だってね、そのぐらいのことは分かるんだよ。」そんなことを言っているうちに、和樹は泣きたいよりも腹が立ってきて、逆に元気が出てきた。 「言ってから、しまった、とは思ったんだ。……けど、その後、和樹は別に何とも思ってなさそうだったし。俺だってずっとそのことばかり考えてたわけじゃない。楽しそうにしてたのは、本当に楽しかったからだよ。ただ、ハッピーエンドの話をしているうちに、そのこと、思い出して……。」 「気にしない素振りもできるっつうの。それに第一、そう思うんだったら、もうその話は出さなきゃいいだろう? それなのに、自分からあんな、変なたとえ話……メリーバッドだかなんだか知らないけどさ、あんな話して。」  涼矢はお湯が沸いたのを確認して、コーヒーのドリップを始める。そしてボソボソと話しだした。「それについては、自分勝手としか言いようがないんだけどね。……和樹に、そんなことないよって言ってもらいたかったのかも。」 「試したわけ?」 「そういうことに……なっちゃうのかな。ああ言ったら、和樹はなんて返すんだろうって思った。きっと、何馬鹿なこと言ってるんだよって笑うか、根拠もなく大丈夫だよって言うか、その程度だと思ってた。それでも充分、良かったんだ。あんな、真剣に考えてくれるって思ってなくて。」 「ほんと、俺のこと馬鹿にし過ぎだから。俺だって考えてるから。でね、おまえにああいうこと言われたら、傷つきもするんだよ。こう見えてナイーブでセンシティブなの、俺だって。」 「はい。熱いから気をつけて。」涼矢はコーヒーを淹れたマグカップを和樹に渡した。和樹は上体を起こして、それを受け取る。 「その前に俺に言うこと、あんだろ。」 「……また面倒くさいこと言ってごめん。試すようなことしてごめん。あと、ありがとう。ハッピーエンドにしてくれて。」涼矢は、無意識に前髪に手をやり、いつもの癖で手櫛で梳くようにしたため、和樹が苦労して立ち上げたスタイルは無残にも壊れた。本人は無意識の仕草にも、それによって髪が乱れたことにも気づいていない。  だが、和樹は当然、それに気づいた。自分の会心の出来だった前髪が崩れたのは残念だったが、考えようによっては、今この時まで、涼矢は前髪を弄ぶ癖を封印して、和樹のスタイリングをキープしてくれていたのだ。  映画館に入る時にメガネも外していた。下ろした前髪に、メガネのない顔。今、和樹の目の前で所在無げに立ち尽くしているのは、確かにいつもの涼矢だった。  その姿を見ると、試された怒りも、信用してもらえない悲しみも、すうっと消えて行った。  試されるのはいい気分じゃない。何度も好きだって言ってるのに、何度も再確認されることも。  でも――それだけのことじゃないか。涼矢が不安に思い、何度も確認せずにはいられないならば、その度に大丈夫、愛していると伝えてやればいいだけのことじゃないか。それで一時的でも涼矢が安心できて、俺と一緒に生きて行こうと思ってくれるのなら、それでいいじゃないか。他に何を望むと言うんだ?

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