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第102話 空蝉(6)
「まったく。」和樹は呆れたように言うが、もうその声はいつも通りで、怒気ははらんでいない。「めんどくせえよ、ほんとに。悪いと思ってんなら、とりあえずその、シケた顔はどうにかして。」
「……。」涼矢の顔は少しだけ緩んだが、まだ、笑顔とは言い難い。
「笑えって言ってるんだよ。ハッピーエンドなんだからさ。いや、まだエンドではないけど、ハッピーなエンドに向かってることは決まってんだからさ。」
「そんなすぐには笑えないよ……コーヒー、もう一杯、淹れる?」
「要らね。」
「掃除する? アイロン掛け? ビデオ借りてくる?」
「笑ってくれりゃそれでいいのに。」
「それができないから。」
「笑顔の代わりに、労働奉仕?」
「それしかできないから。」
「代わりになるもんなんかねえっつの。」和樹は涼矢を手招きする。涼矢はおずおずと和樹に近づいて、正面に立った。「手、出して。」
「え?」戸惑いながら、右手を出す。和樹は左手を出して、お互いの手の平を合わせた。
「涼矢って、手、でかいよな。」手自体も大きいし、指も長い。手を合わせると、和樹よりひとまわり大きかった。
「うん。」
「背も俺より高くて。腕も長くて。手もでかい。」
「うん。」
「でも、俺、おまえが可愛いんだよ。……ちょっとしゃがめ。」涼矢が和樹の前にしゃがみこむと、和樹はベッドに腰掛けたまま、手を伸ばして、ラグビーボールでも抱くように涼矢の頭を抱えた。「可愛いけど、こんなデカイ奴、守ってあげたいなんて思わない。つか、守れないよな。おまえのほうが腕っぷしも強いみたいだし。でも、可愛いと思う。なんなんだろうな、そういうのって。」和樹は、今度は涼矢の顔を包み込むようにして、至近距離で、語りかけた。「なあ、俺のこと好きかって、聞いてみたら?」
「え?」
「それを確かめたくなるんだろ? 回りくどいことしないで、聞けば?」
「……俺のこと、好き?」
「好きだよ。」
「そっか。……そういうこと聞くのって、うっとうしいかと思ってた。」
「うっとうしいよ。」和樹は笑う。「けど、1人で勝手に不安がられるよりはマシだ。」
「じゃあ、あまりしつこくは聞かないようにする。」
「そうして。」和樹は涼矢に口づける。「でも、聞かれれば、ちゃんと好きだよって言うから。何度でも。」
「うん。……俺も好きだよ。」
「それは知ってる。俺のほうは不安になってない。」
「そっか。」涼矢がようやく笑った。
和樹はそんな涼矢の頭を撫でた。「あーあ、せっかくの前髪。」
「あれっ、俺?」
「さっき自分で崩してた。」
「ごめん、無意識。」
「もういいよ。充分見せびらかせたから。スカウトされるほどに。」
「あれ絶対、悪い人だよ。気がついたらマグロ船に乗せられてるよ。」
「んなわけねえだろ。」
和樹が涼矢から手を離すと、涼矢は立ち上がり、和樹の隣に座り直した。
「そういうの、和樹自身も興味ないんだね。」
「え?」
「モデルとか。本職にしないまでも、そういうバイトしたっていいわけじゃない? お母さんだってやってたんだろ?」
「ああ。考えたことなかったな。……おふくろがさ、テレビでモデル出身のタレント、そんなに売れっ子じゃなくて、アシスタントでちらっと出てくる程度の子なんかを見るたびにね、この子整形してるだの、こんな風に画面にちょっと映るだけでも大変だの、ニコニコしてるけど裏は足の引っ張り合いだの、夢を壊すようなことばかり言うからさ、だいぶ前からそういう世界への憧れってのはなくて。おふくろはさっさと結婚して地味な主婦になることを選んでそれで正解だって言ってる。ああいう中で生き延びる人って一握りで、よっぽど地に足着いてないとすぐ流されるってさ。俺、ただでさえ流されやすいから、向いてないと思う。」
「流されやすい自覚はあるんだ。」
「自分で言うのは良いけど、おまえに指摘されるとちょっとむかつくな。」
「俺のこと好き?」
「聞くタイミングがおかしいだろ。」
「むかつくって言われたから、不安になりました。」
「そんなこといちいち言ってたら、しゃべれねえわ。」
「好きじゃないんだ……。」
「好きだよ! めんどくせえな!!」
「めんどくさいって……俺のこと好き?」
「好きだっつの、もう。」
涼矢はハハッと声に出して笑った。
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