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第103話 空蝉(7)
和樹はコーヒーの残りを飲んだ。「そう言えば……なんで臨時休業だったんだろう。」
「喫茶店?」
「そう。……あっ、もしかして、生まれたとか?」
「早くない? 来月って言ってなかったか?」
「そうだよなあ。でも、ぴったりに生まれるもんでもないんだろ?」
「まあ、俺なんか予定より1ヶ月近く早く生まれたらしいからな。」
「そうなんだ?」
「だから未熟児で。体弱かったのはそのせいもあると思う。」
「良かったねえ、こんなに元気に、大きくなって。」
「ありがたいことですねえ。」
和樹は隣に座る涼矢の横顔を見る。「あのさ。」それまでとは違う、真面目なその声に、涼矢も和樹のほうを見た。一拍置いて、和樹が話しだす。「この次、あの店に行ったとして。こどもが生まれてたら、俺はおめでとうって言うよ。赤ちゃんの写真見せてくださいとか、名前なんですかとか、聞くと思う。きっと嬉しそうにね。実際嬉しいだろうからさ。でも、それ見て、傷つくなよ?」
「そんなことで傷ついたりは……。」
「しないって言えるか?」
「……言えないか。ついさっきみたいな、前科があるんだもんな。……うわ、ほんとに面倒くせえな、俺って。」
「誰かにこどもが生まれて、俺がそれを喜んだとしても、それは、その人にとって良かったなって思ってるだけ。そのことと、俺がこどもが欲しいかどうかってこととは、話は別だから。おまえ、頭良い癖に、そういうとこすぐゴッチャにしたがるから、先に言っておく。」
「……はい。すいません。気をつけます。」
「これからきっと、柳瀬が結婚するだの、エミリが出産するだの、いろいろあるわけだろ。そういう時、俺は素直に祝ってやりたいし、あいつらと一緒になって喜んでやりたいんだよ。おまえだってそう思わない?」
「思うよ、そりゃ。」
「だからさ、そういうことがあるたびに、俺の反応見て、いちいち勝手に先回りしたり勘ぐったりしないでね、ってこと。俺らには、俺らの幸せの形ってのがあるんだから、それでいいだろう?」
「……うん。」
俺らの幸せの形。
自分で口にした言葉だけれど、その正体は、まだ分からない。
美術館で見かけた老夫婦、自分の両親、涼矢の両親、あるいは倉田さん夫婦、マスターとその奥さん……それぞれにそれぞれの幸せの形があるんだろう。
どれが正解だなんて、誰にも言えない。
分かっているのは、俺たちは、俺たちで、自分たちの幸せの形を見つけるしかないってこと。
上京する少し前、涼矢と一緒に、地元の遊園地で探して見つけた、ハート型の石。「2人でそれを見つけたカップルは幸せになれる」、そんな言い伝えを信じてみたい。
和樹はそのハート型の石を見つけた時のことをぼんやりと思い出していた。そんなこどもだましみたいな言い伝え、簡単に見つかるだろうと高を括っていたけれど、なかなか見つからなかった。まだ3月のこと、それほど遅い時間ではなかったが日没は早い。もっと暗くなればいよいよ探し出すのは大変だろう。だんだん焦ってきて、あたりを見回したら、花時計が目に入ったから時間を確認した。その時だ、花時計の文字盤の6の手前の地面に、それを見つけた。
無意識に視線を再現して、自室の床を見る。そこは今、涼矢が持参した勉強道具と着替え置き場と化している。
「あれ?」和樹は違和感を覚えた。そこには、テキスト類が積まれていたはずだった。いや、それもあったのだが、その一番上には、見覚えのないノートパソコンが鎮座していた。「このノーパソ、涼矢の?」
「うん。」
「持ってきてたんだ。」
「パソコン持ってないって言ってたから。」
和樹はスマホしか持っていない。パソコン作業が必要な時には大学のPC室を利用していて、今のところはそれで困らない。そのうち必要になれば、たとえば就職活動を始める頃には買おうとは思っている。
「涼矢ってMacユーザーじゃなかったっけ?」
「あれは今お絵描き専用になってる。うちの大学はパソコン必須で、スペックもソフトも指定だからとにかく全員持ってなきゃならない。俺もMacしかなかったから、これも生協で買ったよ、学校推奨のやつ。いまいち使いづらいけど、仕方ない。」
「哲にUSB貸してたね。」
「ああ、同じ講義受けてて、グループワークの課題がある。」
「法律関係?」
「いや、ジェンダー学。必修じゃないんだけど、興味本位で取ってみたら、あいつも取ってた。」
「らしいと言えばらしいような。らしくないような。」
「うん。だよね。結構おもしろいよ。」
「うち来てからこれ使った?」和樹はパソコンを指して言った。
「え? ああ。」
「俺、見た覚えないけど。涼矢がパソコンいじってるとこ。」
「うーん。そう、だね。」
「歯切れ悪い。」そう指摘しながら、和樹はもうひとつ、その下にあるテキスト類に付箋がいくつも付いていることにも気が付いた。そんなものは、少なくとも最初にテキストをここに置いた時には付いていなかった。数冊のテキストがきれいに揃えて積まれていて、さすが几帳面な涼矢のやることだと思った記憶がある。その時にこんな風にビラビラと付箋がはみだしていたら、そうは思わなかったはずだ。
「和樹が寝てから、ちょっとだけ。」
「寝てから勉強してたのか? 寝てからって、だって……。」涼矢が来てからというもの、ひとつのベッドで寝るとなれば、そうすんなりとすぐ寝ることにはならなくて、当然のように睡眠時間は短くなっていた。朝は大学がある時よりは遅く起きているものの、遅くなった就寝時間を補えるほどではない。「それじゃおまえ、ほとんど寝てないんじゃないの?」
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