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第104話 空蝉(8)
「寝てるよ。」
「どれぐらい?」
「5時間ぐらいは……。」
「嘘だろ、そんな時間ないだろ。」
「……ここ2日だけだよ。少しは寝たし。」
「馬鹿、そんなことしてるから、具合悪くなるんだ。」
「今日は暑かったし、あんな人混みに慣れてないし。」
「どう考えても寝不足だよ、一番の理由は。なんでそんな」言いかけて、和樹はハッとした。「俺が、おまえが勉強するの、嫌がるから? つまんないとか淋しいとか言ったから?」
「……夜中のほうが、静かで集中できる。」
「俺なんだな?」
「別に、そんなんじゃ……。」
「勉強したいならそう言えば良いのに。……って言いたいけど、ちゃんと言ったんだよな、おまえは。やっぱ俺か。」
「勝手にしたことだから。」
「そんなに大変なのか、そっちの勉強? 切羽詰まってる?」
「そんなことない。俺が心配症なだけ。……今日からはまともに寝るよ。確かにそれで体調悪くしてたんじゃ意味ねえもんな。」
「うん。それとさ、勉強したい時にはしろよ。もう淋しいだの何だの言わないから。それで夜は、ちゃんと寝て。」
「ああ、そうする……けど、その、ちゃんと寝る、ってのは、余計なことはしないでさっさと寝るって意味なわけ?」
2人は真顔で見つめ合った。お互いの言わんとするところは分かっている。
数秒後にプッと吹き出したのは和樹だ。「その質問に答えるにはまず、おまえの言う『余計なこと』が、具体的に何を指しているのかの定義をしてもらわないとなあ。」和樹はにやにやしながら、あえて聞き返した。
「キスとかセックスとか、いちゃいちゃ全般のことですけど。」涼矢は淡々と答えた。
「チッ。普通に答えやがった。」
「で、どう?」
「……それは、俺の定義では、余計なことじゃない。必要不可欠なことだな。」
「俺も同感だ。さっきのは修正する。夜はベッドに入ったらセックスして寝る。勉強なんかしないで、さっさと寝る。これでOK?」
「OK。勉強したけりゃベッドに入る前に済ませろ。」
「分かった。」
「ところで。」
「ん?」
「さっきの、ジェンダー学?の課題、哲と組んでるの?」
「うん。他にあと2人いるけど。」
「ふうん。本当に仲良いね。」
「まあ、友達なんで。」
「他の2人ってのは?」
「哲の友達の女子。その講義自体、ほとんど女子なんだ。講師も女の人。ほぼ女の園。」
「そこにおまえと哲が。目立ちそう。」
「いや、さすがに他にも何人か男もいるけどさ。女子が多いと聞いて取っちゃったみたいで、そういう奴ほど居心地悪そうな顔してるよ。哲は大きな顔してるけど。学校では女の子とばっかり仲良くしてるからね、あいつ。」
「男とは友達になれないんだもんな。」和樹は笑う。
「そう言えば連絡取れないんだよね、哲と。渡したUSBのデータ、古いの混じってたの思い出して、PCのほうに修正版送ったんたんだけど。PCのメールは見てないのかと思って、スマホに連絡しても既読にすらならない。」
「昨日の今日だもん、忙しいんじゃないの。バイトだって言ってたし。」
「そうだよな。」
「バイト先の店長と修羅場ってたりして。その人と付き合ってたんだろ?」
「……ありえなくない。」
「倉田さんの件、本気なのかな。一筋になるって。」
「さあ……。哲って本音を隠すとこ、あるからなあ。」
「そこはおまえと似てるよね。他は違うけど。」
「一緒にするなよ。」涼矢はむくれる。
「他は違うって言っただろ。」
「俺のこと」言いかける涼矢にかぶせるように和樹が言う。「好きだよ!!」
「フライングにより失格。」
「失格したらどうなるの?」
「ペナルティとして俺にキスしないといけない。」
「は。」和樹は笑ってキスをした。「ペナルティじゃないし。」
翌日、2人はどうにも気になって、再び例の喫茶店に行ってみた。しかし、前日の張り紙はそのままそこにあり、扉は閉ざされたままだ。再開の日付も入っていない。
「定休日でもないしなぁ。どうしたんだろう。」扉の前で和樹が呟く。
「本当に出産だったりして。」
「だったら、店が再開した時にはマスターもパパになってるのか。」
「だといいけどね。」
「なんだよ、その言い方。」
「だって、まだ分からないだろ。無事に生まれるまでは。みんながみんな母子ともに健康とは限らないんだから。……あんまり考えたくないけど。」
「……大変だな。」
「大変なんだよ。」
店が閉まっている以上、そこにいても仕方がない。2人は今来た道を戻り始めた。
「出産したことあるみたいだな、おまえ。」
「たぶんないと思う。立ち会ったことはある。」
「たぶんって……いやいやいや、じゃなくて、出産に立ち会ったって? 誰の?」
「それはもちろん、俺の……」
「おいっ。」和樹は立ち止って、涼矢の肩をつかんだ。涼矢も立ち止まる。
「従妹の。」
「は?」
「おふくろの腹違いの弟に、そのまた娘がいて。俺と同じ年で。16で出産したんだけど、ちょうど法事の真っ最中に産気づいて、病院間に合いそうになくて、たまたま親戚に医者もいたからその場で自宅出産することになって、はからずも立ち会うはめになった。」
「きみ、なかなか波乱万丈だね。」再び、歩き出す2人。
「その従妹って、このご時世に走り屋とかやっちゃう感じの田舎のヤンキー娘で、同い年と言っても、かなり苦手でさ。向こうも俺のこと毛嫌いしてたし。まあ、それでも出産は感動的だったよ。俺、その場で一番泣いてたらしいし。生まれた子の父親が不明だったもんだから、実は俺が父親なんじゃないかって本気で親族会議になるところだった。」
「その時に言えば良かったのに。ゲイだから違いますって。」
「今だったら言えるかもしれないけどね……。当時は俺だって16歳のいたいけな少年だったからね。」
「いたいけな少年。」和樹は涼矢の言葉を繰り返して、吹き出した。
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