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第105話 空蝉(9)

「俺のスイートシックスティーンはね、年上のお姉さんをセフレ扱いしていたおまえとは違うんだよ。清らかで、ストイックだったの。」 「清らかでストイックだった涼矢くんは、今ではこんなに……。」 「俺は今でも清らかでストイックだろ、おまえに比べれば。」 「はぁあ?」 「恋人のために、炊事に洗濯、掃除も厭わず、寝ている彼を起こさないようにしながら、夜中に勉学に励み。けなげなもんじゃないか。」 「自分で言う?」 「おまえは言ってくれないから。」 「言ってるだろ、可愛いとか好きとか。」 「そんなの、俺だって言ってる。」  2人は和樹のアパートに戻ってきた。涼矢は冷蔵庫からジンジャーシロップの保存ビンを出した。結局喫茶店の前まで行って戻ってきただけで、外にいたのは30分程度のことだが、それでも暑くて、喉が渇く。 「シロップの残り、これだけだ。1杯ずつ飲んだら終わりかな。飲む?」  うなずく和樹を見て、涼矢は最後のシロップをマグカップに注ぎ、炭酸水で割った。  涼矢からカップを受け取りながら、和樹は「結構すぐなくなっちゃうね。また作ってよ。」と言った。 「うん。」 「お、けなげだねぇ。」 「だろ?」 「なあ、さっきの、従妹の話だけど。16で出産ってことは、その時生まれた子って、もう3歳?」 「ん。」飲みながらうなずく。 「俺らと同じ年で、3歳の子持ちかあ。」 「そういや、年賀状、七五三の写真だったな。ヤンキーも着物なんか着ちゃって、それなりに母親らしくなってたよ。」 「へえ。」 「哲の……なんだっけ、おっさんも言ってたけどさ。変わるんだよな。人って。良くも悪くも。」 「倉田さんな。」 「ああ、そう。倉田。」 「あ、倉田さんに聞いたらわかるんじゃないの? 哲の状況。連絡取ってみたら?」 「嫌だよ。そもそも連絡先知らない。」 「まだあるだろ、ゴミ箱の中に。」涼矢が握りつぶして捨てた煙草の箱。そこに挟まっていたはずの連絡先のメモ。 「必要ない。どうせそのうち哲から連絡来るよ。」 「俺から倉田さんに連絡取ってみようか?」  涼矢は和樹を睨んだ。「はあ?」 「だってさっき哲のSNS見てたらさ、倉田さんぽい人がコメントつけてるの、見つけた。」和樹はスマホの画面を見せる。「ほら、この、倉田洋一ってのが、そうじゃない? 哲もヨウちゃんって呼んでたし。」 「知らないし、どうでもいいし、連絡なんか取る必要ない。」涼矢は画面を見もせず、不機嫌さも隠さず、ぶっきらぼうに言った。  だが、一方の和樹はそんな涼矢を見て、笑いを噛み殺している。涼矢もそれに気が付いた。「何笑ってんだよ。」 「笑ってないよ。」そういう声は明らかに笑いを含んでいる。 「笑ってるだろ。」 「……だって……そんな分かりやすい涼矢って滅多に見られないからさぁ。」ついに和樹はクスクスと笑い出した。 「俺がやきもち焼いてるのがそんなにおもしろいかよ。」 「おもしろい。」 「ひでえ。最低。」 「ごめんごめん。」その謝罪も笑い混じりだ。  涼矢はムッとした表情で、例の勉強道具の山を抱えると、テーブルのところに座っていた和樹を蹴飛ばした。「どけ。」 「なんだよ、いきなり。」 「勉強する。テーブル使うから、おまえはどけ。」 「はあ?」和樹はとりあえずベッドの上に移動する。「そんなに怒らなくても。」 「……。」涼矢は和樹を一瞥して、顔を背けた。漫画だったら、「フンッ」という吹き出しがつきそうな背け方だ。  和樹もさすがにこういう時の涼矢の扱い方なら分かってきた。……とにかく、逆らわないことだ。大人しく、ベッドの範囲からはみださず、音を出さず、過ごすしかない。  涼矢が勉強に集中している間のひまつぶしとして、とりあえずスマホで、さっきの哲のSNSを見る。案外とこまめに発信するタイプのようだ。そして、それ以上に意外だったのは、それに対して倉田が普通にコメントをつけていることだった。公開範囲を区切っているわけでもない、誰が見ているかも分からないところで。  内容は他愛もなくありきたりのことで、2人の関係を示唆するようなものはないけれども、ほぼすべてに対してと言っていいぐらいに、倉田は何かしらのレスポンスをしている。哲がラーメンを食べたと言ってラーメンの写真を載せれば、「美味しそうだね」、靴を買ったと言って写真を載せれば、「カッコイイね」などというように。それに対して、哲が更に返事をする時もあるし、放置している時もある。  2人の関係性がますます分からなくなる和樹だった。  ――哲は本当に倉田さん一筋という覚悟を決めたのだろうか。哲の口からそう聞いた時、そうしたほうがいい、と素直に思った。哲は今まで随分と乱れたつきあい方をしてきたようだけれど、そういうのは、決してほめられたものではないと思ったから。やっぱり、きちんと1人の人と愛し愛されるほうがいいわけで……。でも、それを言ったら、そもそも倉田さんは既婚者だ。偽装の妻だとしても、奥さんのいる人と深い関係になるというのは、ゲイだろうとなんだろうと、人の道に外れたことなんじゃないだろうか。それだったら、結婚していない不特定多数との乱れた関係のほうが「正しい」かもしれない。    でも「正しい」ってなんなんだろう。  きっと、哲と倉田さんがつきあったって、奥さんは気にしないんだろう。自分にも「夫」とは別に恋人がいて、そういう条件で結婚したんだし。だったら、哲が倉田さん一筋と決めたことは「正しい」んだろうか。でも、もし、奥さんの「こどもが欲しい」という気持ちがもっと切実になる日が来るとしたら……2人は、セックスできなくても、体外受精とかでこどもを持つことは可能なはずだ。この先、そういう選択をする時が来てしまったら、哲の存在は邪魔にはならないんだろうか。そうだ、それに、倉田さんも言ってたように、生まれて来るこどもにとっては、そういう環境ってどうなんだろう? 奥さんの恋人にとっては?  和樹はベッドに寝そべって、スマホ片手にそんなことをぐるぐると考えた。そして、最後に考えてしまうのは。  ――じゃあ、俺たちは? 俺たちは、「正しい」のか?  和樹はそっと涼矢の背中をうかがいみる。涼矢は左手で頬杖をついて、何やら考え込んでいた。右手のペンを小刻みにノートに打ち付けている。答えの出ない難問にでも取り組んでいるのか。

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