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第109話 空蝉(13)

「おつかれ。」何一つ手伝わず、その様子をただ眺めていた和樹は、他人事のように言った。 「おまえのもんばっかりなのに。」 「だって、股関節が痛いんだもん。」 「毎日やってんだから、いいかげん慣れろよ。」 「だって、めっちゃ足開かせるから。」 「だってだって言うなよ。今度からは、筋トレばっかりじゃなくて、ストレッチもやっとけ。」 「セックスのためにかよ。」 「そう。体が柔らかいに越したことはない。」 「……おまえ、何やろうとしてんの。」 「和樹の持ってるポテンシャルを最大限に引き出そうと……。」 「エビ反りとか180度開脚とか無理だからね。」 「そこまで求めるつもりはなかったんだけど、その手前ぐらいならやってくれそうだな。」 「やらねえよ。」  涼矢は横を向いて、和樹の頬にキスをして、にっこりと微笑んだ。「大丈夫、ゆっくり段階を踏んでいくから。」 「やらねっつの!」 「きっとやるよ。和樹、流されやすいから。」 「……。」絶対にない、と言い切れない自分に愕然とする。 「外していい?」涼矢がそう言った時には、もう、メガネは外していた。 「だめ。」和樹がそう答えたのは、もちろん、わざとだ。ただ単に涼矢の言うことにすんなりイエスと答えるのが癪だっただけだ。 「頭と耳が痛くなってきたんだってば。」涼矢はそう言いながらも、かけ直してくれた。 「もう一回だけ、それで、キスしたら、いい。」  涼矢はすんなりと言うことを聞き、和樹にキスをした。これで気が済んだろうと言わんばかりにすかさず外すのかと思いきや、かけたままだ。それどころか、にこにこと和樹の顔を眺めている。 「いいよ、もう、外して。」 「本当にいいの?」 「いい。なんか、今のは、俺の理想のメガネじゃなかった。」 「え、そうなの? つか、理想のメガネって何だよ。」言いながらやっとメガネを外した。 「そんなヘラヘラ笑ってなくて、もっとクールな、愛想のない感じで……。」  涼矢が笑った。笑って、むせた。 「そこまで笑うことか?」 「……だって、それって……和樹、やっぱそういう素質あんだろ。」 「なんの?」 「なんのってそりゃ、今自分が言ったこと思い出せば、分かるだろう?」 「え? わからん。」 「自覚ねえのか。ま、いいや。」涼矢は和樹の頬にそっと触れた。しばらく見つめた後、唇に口づけた。「クールなメガネじゃなくてごめんね。」と笑う。  和樹も同じように涼矢に口づけた。「これはこれで好き。」  涼矢は和樹の裸の胸にもぐりこむようにして顔を寄せた。「今になって急に眠気が。」あくびをした。 「いいよ。寝れば?」 「ん。」 「いつ起こす?」 「おまえの腹が減ったら。」 「はは。分かった。俺の腹が鳴る音で起きろよ。」  涼矢は微笑みながら目を閉じた。2人の会話より、外の雨音のほうが大きかった。  翌日は台風一過の、雲一つない晴天だった。涼矢が東京に来てからちょうど1週間が経つ。2人は買い物がてらにあの喫茶店へ行ってみた。  ランチタイムの少し前、11時を少し回ったところだった。  2人は、ちょうどマスターが看板を道に出しているところに遭遇した。 「あ。」と思わず声を出したのは和樹だ。 「ああ、こんにちは。」とマスターは微笑んだ。「今日はモ―ニングは休ませていただいてね、昼からなんです。……お寄りになりますか?」 「はい。……あ、でも、あと15分ぐらい?」店の扉にかかっているプレートには、ランチタイムの営業は11時半からと書いてある。 「どうぞ、中でお待ちください。ちょっとバタバタしてお騒がせしますけど。」  和樹は涼矢と顔を見合わせ、うんとうなずきあって、店の中に入った。涼矢は買い物したものの中に冷蔵品がなかったかを思い出そうとする。生鮮野菜はあるが、喫茶店にいるぐらいの時間なら常温でも平気だろう。ちょっと心配なのはヨーグルトか。「あの、すみません。これだけ冷蔵庫に入れさせてもらっても……?」涼矢はヨーグルトの入った買い物袋を持ち上げて見せた。 「ああ、いいですよ、帰る時、忘れないでね。」マスターは屈託なく笑った。こんな風に笑えるなら、「悪いこと」があったわけではないに違いない、と2人は思った。そして、冷蔵庫に入れてもらった以外にも買い物袋を持っていたからか、マスターに4人掛けのテーブルを勧められて、そこに座った。  それからマスターは、何やらレジスターの設定をしたり、各テーブルにメニューを置いたり、シュガーポットの中身を確認したりと、確かにバタバタと立ち回った。その合間に2人の前に冷水を置く。「飲み物でしたら、お出しできますよ。料理は、少し時間いただくけど。」 「あ……あの、涼矢スペシャル。」と涼矢が恥ずかしそうに言う。自分の名前が冠されたメニューを口にするのは照れるらしい。 「俺も。」と和樹が言った。 「え、いいの? アイスコーヒーとかじゃなくて。」 「うん。今日はそういう気分。」  そのやりとりを聞いて、マスターは「かしこまりました。」と言った。

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