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第110話 空蝉(14)

 マスターは細々とした作業と並行させながらコーヒーを淹れる準備をしていたが、最後のドリップだけは、その作業に集中している様子だ。惚れ惚れとするような姿勢の良さで、ただお湯を注ぐだけの作業が美しく見える。 「お待たせいたしました。リョウヤスペシャルでございます。」  マスターがコーヒーカップを置いた。涼矢が一口それを口にして、「おいし。」と言うと、安心したように微笑みを浮かべた。    通常ならそれでカウンターへと戻っていくのだろうが、マスターは立ち去らなかった。 「あの……。」マスターが涼矢に向かって、何か言いかけた。いつも余裕綽々でダンディなマスターにしては珍しく、どこか緊張したような面持ちになっている。 「はい。」休業の理由が明かされるのだろうか。出産なのだろうか。何にせよ、こちらから言ってはいけない気がして、涼矢はマスターの次の言葉を待つ。 「リョウヤくんは……リョウヤ、という字は、どう書くのですか?」  予想外の質問に、涼矢は面食らう。「え? 涼しい、に、弓矢の矢、です、けど……?」 「涼しいに、矢。……ああ、いいですね。」 「あの?」 「実は、その。」マスターは鼻の頭を掻いた。ますますマスターらしからぬ振る舞いだ。 「生まれた……んですかっ?」我慢しきれず和樹が前のめりになって言った。 「はい。」マスターの目尻がぐーっと下がる。 「おめでとうございますっ。」和樹は立ち上がり、マスターの手を取り、半ば無理やりに握手した。哲みたいなことをしやがって、と涼矢は思ったが、言わない。こういう場面で、そうやってストレートに喜びを露わにしてくれる和樹だからこそ、自分も救われてきた。 「あ、ありがとうございます。」ただ、マスターのほうは和樹のそんな態度を目にするのは初めてで、少々戸惑いの表情を見せた。それでも嬉しそうにうんうんとうなずいて、和樹に言った。「生まれたのは3日前で、予定よりかなり早かったので心配だったのですが、なんとか今日には親子ともども安定しまして。少し長めの入院にはなりますが、元気に退院できそうな目途が立ちました。」 「じゃあ、やっぱり、臨時休業していたのって。」 「ええ。……あ、もしかしていらしていただいていたんですか?」 「はい、昨日も一昨日も。」 「それは申し訳ありませんでした。」 「あー、良かったあ。」和樹は席に座り直すと、我がことのように安堵の声を漏らした。 「それで、名前をね、今考えていて。男の子なんですけど。」 「男の子かぁ。……あっ、そうか、それで、さっきの?」和樹はマスターと涼矢を交互に見た。 「はい、実はリョウヤが有力候補でして……。」 「えっ?」涼矢は急に自分の名をコールされて、びっくりしている。今の和樹とマスターのやりとりを聞いていてもなお、こどもと自分の名前が関連しているとは、思ってもみなかったようだ。 「初めてお伺いした時から、良い名前だと思ったんですよ。……嫌ですか、こんな、おじいさんのこどもにつけられるのは。」 「え、いや、そんなことは全然……ていうか、逆で。俺の、俺なんかの。」 「私はね、年相応に父親になれていたら、あなたぐらいの息子がいてもおかしくない。そして、生まれてきた子が、あなたみたいになってくれたらいいなと思ってるんです。ああ、妻の意向もあるのでね、絶対につけるとお約束はできないのですが。……でも、私はそうしたいと思っていますし、妻も、私に漢字を聞いてくるように言うぐらいですから、かなり気に入っているはずです。だからこんな風に、店を再開してすぐお会いできて、本当に良かった。」 「すげえ!」和樹は、これもまた我がことのように満面の笑みを浮かべて喜んだ。「何か運命を感じますね。」 「ああ、もちろん、きみもね、理想の息子ですよ。」マスターは和樹のほうを見て笑った。 「大丈夫です、分かってます。マスターの息子なら涼矢のほうがいいです、絶対。涼矢お勧めです。」和樹のそんな言葉にマスターはハハハと声に出して笑ったが、涼矢は沈んだ顔をしていた。  そんな涼矢に、マスターは穏やかに語り始めた。「妻はね、30代って言いましたけど、39なんです。結婚したのがもう36歳でしたから、すぐに不妊治療を開始しました。それでもできなかった。2年頑張りましたけどダメで、あきらめて、2人で生きて行こうと決めました。そしたら、自然妊娠で授かったんです。奇跡だと思ってます。年も年ですから、私たちの、最初で最後のこどもだと思います。そういう、私たちの大切なこどもだから、最高の名前をつけてあげたいんですよ。……お願いします。」マスターが頭を下げた。  涼矢は無反応だ。ただじっと押し黙っていた。祝福ムードから一転、緊張した空気が流れた。  やがて、「あなたの意志は尊重します。無理なら、あきらめましょう。」マスターが淋しげに言った。 「……俺の許可なんか、要らないですよね?」涼矢がうつむいたまま言った。 「そうですね。名付けは自由です。でも、私はあなたにきちんとお話ししたかったし、できることなら、あなたの祝福も受けたかったんですよ。もちろん、それは私の勝手な希望ですが。」 「祝福はしてます。本当に、良かった、って。」 「ありがとうございます。」 「俺の名前を気に入ったくれたんだったら、嬉しいです。俺も俺の名前、嫌いじゃないし。でも……。」涼矢は顔を上げて、マスターを見た。「あと、すごく似てます。俺と。うちの親も、結婚遅くて、不妊治療で俺が生まれたって聞いてます。予定日より早く生まれて、俺、未熟児でした。それでも、大事に育ててもらって。すごく感謝してるし。」 「私もそれを聞いてとても嬉しいですよ。」マスターが優しく笑う。 「……でも。」  その時だった。  まっすぐにマスターを見上げる涼矢の目から、つーっと、一筋の涙が伝った。  マスターは優しい笑みを浮かべたままだ。和樹は動けなかった。 「俺、ゲイです。」  和樹は、時間が止まった気がした。

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