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第111話 空蝉(15)

 しかし、マスターの手が、涼矢の頭を優しくポンポンと撫でているのを見た。時間は止まってなどいない。 「それが、どうかしたんですか?」  マスターがそう口にした瞬間、涼矢は両手で顔を覆い、テーブルの下に上半身が隠れるほどその身を屈めて、静かに泣いた。 「私は、自分の子が、あなたみたいになってくれたらいいなって、そう思ってます。」マスターはもう一度そんなことを言った。  カランコロンと、耳慣れたドアベルの音がした。 「開いてる?」常連客らしき男性が、扉を少し開けて、顔をのぞかせた。 「申し訳ありません、もう少しお待ちいただけますか? すぐご用意しますから。」マスターがにこやかに答える。男性が片手を上げて了解の合図を送り、扉を閉めた。外で待ってくれるようだ。  マスターは再び涼矢のほうを向く。 「どうでしょう。お名前をいただいても、構いませんか?」  マスターのその言葉に、涼矢は顔を覆ったまま、深くうなずいた。 「ありがとうございます。」マスターも深くお辞儀をした。  涼矢が落ち着きを取り戻し、再び顔を上げるのを見届けてから、マスターは外で待っていたさっきの男に声をかけた。男は一人客で、自分から入口に近いカウンター席を選んだ。開店前から和樹たちがいることには気づいているだろうが、とりたててそれについて気にする様子もなく、「グァテマラ。あと、今日のケーキは何?」と言った。  マスターは「すみません、しばらくケーキはできなくて、デザートは、バニラアイスとコーヒーゼリーのみなんですよ。」と答えている。ケーキは奥さん担当だと言っていたから、今は作れないのだろう。  涼矢の目はまだ赤い。誰が見ても泣いていたのは明白だ。カウンターには背を向ける席だったので、男にその顔を見られる心配はなかったけれど。  だが、正面に座る和樹には、当然、よく見える。涼矢は和樹と視線を合わせたくないのか、伏し目がちだ。  2人はしばらく黙ったまま、冷めてしまったコーヒーを口に運んだ。  なるべくゆっくり時間をかけたが、それも飲み干してしまい、口を開いたのは和樹だ。「何か、食べる?」 「いや……。」涼矢は首を左右に振る。「おまえは、食いたいなら食えば。」ボソボソと言う。  その時、マスターがやってきた。 「どうぞ。」テーブルに置かれたのは、サンドイッチだ。一皿に盛られているが、二人分はあるボリューム。それからコーヒーポットも持っていて、2人の空いたカップに、お替わりを注いでくれた。「涼矢スペシャルランチセット。ささやかながら、お礼です。」 「え、あの……そんな。すいません。」涼矢がマスターにたどたどしく言う。 「涼矢、すいませんじゃなくてさ。まだ言ってないことがあるよ?」和樹が言った。  涼矢が和樹を見た。「あ。」それからすぐにマスターを見上げる。「おめでとうございます。」 「ありがとう。」マスターはにっこりと微笑んで、カウンターの中へと戻っていった。 「食べよ?」和樹が言う。 「うん。いただきます。」涼矢は合掌まではしなかったが、サンドイッチに向けて一礼して、ひとつ取り、口に運んだ。「美味しい。」と呟く。  和樹も皿に手を伸ばした。サンドイッチはハムサンドや玉子サンドなどの盛り合わせだ。定番の具材ばかりだが、どれも美味しそうで迷う。結局トマトときゅうりの野菜サンドをまず取った。食事の度に涼矢から「野菜を食え」と言われることが、刷り込みになっているのかもしれない。  いざ食べ始めると、涼矢はすぐに2つ目にも手を伸ばした。和樹は、そんな涼矢をじっと見つめた。 「ん?」涼矢がその視線に気づく。「ここまでが俺の分ね。」皿の真ん中あたりに指で示す。確かにそこを境にして、左右対称に各種のサンドイッチが並んでいる。2人で公平に分けるならそこが境界線だろう。 「それは別にいいよ。好きなだけ食えよ。」和樹は笑う。 「そんなこと言ったら、全部食っちゃうぞ。」 「それでもいいよ。」和樹の頬杖をついて、涼矢を下から覗き込むようにして見た。「食ってると安心ての、ない? 自分でも自分以外でも、食えて、美味しいって言えるうちは、大丈夫、みたいな?」 「みっともないとこ見せた、ごめん。……もう大丈夫だから。」 「うん。」 「これは、半分ずつ。」涼矢がサンドイッチの皿を指す。 「ここから俺の陣地な。」和樹はさっき涼矢が示した境界線をなぞった。

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