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第112話 空蝉(16)

 食事を終え、2人はマスターの好意のサンドイッチはともかく、最初に注文した分のコーヒー代は払おうとしたが、オーナーは今日のお代は結構です、と頑として譲らなかった。 「それと、こちらをお忘れなく。」オーナーはヨーグルトの袋を涼矢に手渡す。 「あ、すっかり忘れてた。ありがとうございます。」涼矢は照れ笑いをする。 「こちらにいらっしゃる間に来られるようでしたら、また是非。」 「はい。」 「こいつがいなくても、俺はまた来ますよー。」和樹がおどけてアピールした。 「もちろん、いつでも。明日からはモーニングも再開します。」 「やった。」 「そうだ、あなたの名前は?」 「教えたら、名前どっちにするか、迷っちゃいますよ?」 「はは、そうですね。聞かないほうがいいかな。」 「嘘です、聞いてくださいよ。和樹です、和樹。平和のワに、樹木のジュ。」 「良い名前だ。確かに、迷ってしまいそうです。」 「でしょ? でも、俺はゲイじゃないです。」  涼矢はぎょっとした顔で和樹を見た。何を言い出すのかと不安そうだ。 「ゲイじゃないけど、俺は涼矢が好きです。」 「ええ、そうなのでしょうね。」マスターは動じない。 「ですよね。どうでもいいですよね? そんなこと。」 「どうでもよくはない。」マスターは少し芝居がかったしかめ面をしてみせた。和樹と涼矢がそれを見て顔をこわばらせた瞬間に、いつもの穏やかな笑顔に戻る。「誰かを本気で好きになれるかどうか、それはとても大切なことです。人生で一番大事だと言っていいかもしれません。私は我が子に心から愛する人と出会ってほしいと願ってやみませんよ。」  和樹は笑った。「マスター、いくらなんでもそんなの、気が早いですよ。生後3日でしょ、おたくの涼矢くん。」 「親がこどもの幸せを願うことに年齢は関係ありませんよ。」マスターは扉を開けて、2人を見送る。「きっと、あなた方のご両親も同じでしょう。」  2人はマスターに会釈をして、店を後にした。  アパートに向かって歩きながら「おまえまで言わなくても良かったのに。」と涼矢が言う。 「何を?」 「その……俺が好き、とか。」 「だってそんなの分かることだろ。毎回2人一緒に来て、それもモーニングから一緒に食って、あの状況でおまえがあんなこと言えばさ。」 「そうだけど、わざわざ言う必要もない。」 「俺は逆に考えてた。」 「ん?」 「もっと、平気なんだと思ってたんだよ。おまえが。」 「カミングアウトすること?」 「そう。だって大学でも隠してないみたいだし。あんな風に、思い詰めるっていうか、そういう段階は終わったんだと思ってた。」 「うーん。」涼矢は無意識に顎に手を当てて考え込む。「それとはこれとは違う気がする。」 「そうなの?」 「うん。あの、おっさんが。倉田さんか。倉田さんがさ、言ってただろ。」 「やっと覚えたな。で、倉田さんが何。」 「こどもは要らない、自分のDNAなんか残したくないって言ってた。自分の再生産なんてゾッとするって。それって、すごい、人間性を疑われるような言葉だと思うんだけど、俺は結構、共感しちゃうところがあった。」 「それって、自分のことが嫌いってこと?」  そこで和樹の部屋の前に着いた。  部屋に入ってから、続きを話す。涼矢は冷蔵庫に買い物してきた食品を詰めながらだ。 「……昔は嫌いだったよ。自信もなかったし。でも、今はそうでもない。」 「だったら、なんで?」 「ゲイの自分を受け容れて、今幸せだからって、これから生まれてくる子や、生まれたばかりの子も同じようにゲイになればいいとは思わないよ。」 「……。」 「今は和樹がいるからいい。けど、それまでは辛かった。あんな思いをするのは自分だけで充分だと思ってしまう。」涼矢は一通りの食料品を詰め終わり、冷蔵庫のドアを閉めた。閉めたポーズのまま、和樹に背を向けて、動かない。「それと、親への罪悪感。俺、親に感謝してるし、尊敬もしてる。でも、俺は親にはなれない。――親への感謝ってさ、最終的には、自分も親になることで完成すると思うんだよ。自分が生んでもらって幸せだったから、同じように、自分もそういう幸せな存在を生み出してやりたいって思って、こどもを持とうとする。それが再生産だろう? 親はこどもがさらにそのこどもを生み出すのを見て、自分のやってきたことは間違いじゃなかった、って安心するんだよ。でも、俺はそれができない。自分みたいな子が増えてほしいと思えないし、女とセックスしてこどもを作ることができない。だから、親には申し訳ないって気持ちが消えない。」 「そんな。親って、そんなんじゃないだろ? マスターだって言ってただろ。おまえが幸せならそれが一番だって、少なくとも佐江子さんはそう思ってると思うぞ。」

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