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第895話 狐火 (2)
涼矢は時折こうして冗談交じりに「嫁」という単語を出す。そう、冗談には違いない、と和樹は思うが、最近はそう言われるたびに少しだけ胸の奥がチクリと痛む。
嫁なんて前時代的な言い方は、今時の若い女性ならむしろ敬遠するだろう。エミリだって綾乃だって「お嫁さんになるのが夢」などとは決して言わない。
それをあの、図体がでかくて無愛想なあの男が言うからこそ滑稽で、冗談として成立する。和樹にしても、「結婚してほしい」と言ったのは本気だが、「嫁に来てほしい」は冗談として口にする。将来を誓い合ってもまだ、迂闊に話題にすることはできず、普段は「冗談」で覆っておかねばならない。自分たちは、まだまだそんな、微妙で不安定な関係なのだと突きつけられる思いがする。
「和樹?」
涼矢の声で我に返る。
――早く涼矢のメシが食いたいな。
「おまえは俺が好きなのか、俺の料理が好きなのかどっちだ。」
――料理。
「ひでえ。」
――涼矢だって、俺本体じゃなくて顔とか筋肉が好きなんだろ?
「だとしても和樹には違いないだろ? 料理の腕前なんかスキルでしかない。」
――でも、料理って心を込めるわけじゃない? つまり作り手の本質だよ、本質。俺は涼矢の本質を愛してるの、見た目じゃなくてね。
「調子いいことばっかり。」
――悪いよりいいだろうが。
「へらず口。」
――おまえに言われたくねえよ。
「だよな。」
――お、認めたな?
「まあね。料理で気を引くぐらいのことしかできないんで。次会う時には、めいっぱい心を込めたハンバーグでも作ってやるよ。」
――おう、楽しみ。
「その、次会う話だけどさ、三月の上旬でいいんだよな?」
――ああ、そのつもりでいるけど? 三月ならいつでもいいから、指定してくれればその日に帰るし。
「一日 でも?」
――別にいいけど。
「バイト、ギリギリまであって、せわしくない?」
――いや、別に。もうそれで辞めちゃうんだし、次のタームの準備もしなくていいから。
「……ああ、そうか。」
――ん。じゃ、そのつもりで新幹線とか取るわ。
「また時間分かったら教えて。迎えに行くから。」
――はいはい、了解。
「あと、一応スーツ持ってきて。」
――銀婚式用か。
「成人式の写真も撮るだろ?」
――あ、それもあるか。いつもの一張羅だけどいいよな?
「和樹が良いならいいんじゃない?」
――おまえだけ高級ブランドスーツ着るなよ?
涼矢はプッと吹き出す。
「あのスーツだって良い物だから大丈夫だよ、見劣りしない。」
その言い方からしてやはり涼矢のスーツはブランド品なのだろう、と和樹は思う。ただ、小嶋のお下がりのスーツだって、確か早坂が結婚祝いとして仕立てた品だ。「名家育ち」の小嶋への特別な贈り物なのだから、良い物には違いない。
和樹は布団に入ってからも涼矢との会話を思い返していた。
三月に入ったらすぐ、涼矢に会いに行く。
そうと決まると、塾バイトから離れる淋しさや将来への不安や焦りも紛れるというものだ。我ながらゲンキンだ、とおかしくなる。
――三月。三月か。涼矢と付き合いだして、もうすぐ、丸二年ってことだ。
卒業目前の教室で話しかけてきた涼矢。漫画を読みに家に来い。たったそれだけの誘い文句をどれほどの勇気を振り絞って口にしたのだろう。もしあの時、今更漫画なんて、と軽い気持ちで断っていたら、今日という日はなかった。
無意識に耳たぶに触れた。涼矢とお揃いのピアス。このピアスはいつも涼矢のそれと繋がっている気がする。いっそ「和樹」という涼矢の声が耳元で聞こえたらいいのに、と思う。
また例の動画を見ようとスマホをいじる。その前にいくつかの写真を見た。二年前よりずっと柔らかい表情の涼矢。こんな顔で笑う奴だなんて知らなかった。
それから、あの、俺を組みしだく時の雄々しい表情 も。
「んっ。」
和樹はスマホを枕に置いたまま、手を股間に差し入れる。
「あ……あっ、あ……。」
前ばかり扱いていても、じきに物足りなくなるのはもう分かっている。始める前に準備しておけばよかった、と心の中で舌打ちしながら、和樹は行為を中断した。
ベッドの上から、下をのぞき込む。手を伸ばして「グッズ」の入った箱を手繰り寄せ、そこからバイブを取り出した。
去年の秋、慌ただしく来訪した涼矢と使って以来、それを使うことに対してすっかり抵抗がなくなってしまった。それどころか、あの時の涼矢を思い出すために、積極的に使ってしまう。涼矢の前で足を開いて、これを使って自慰をしてみせろと言われて、やった。
「あ、あ、いい……りょう、きもち、い……。」
それでも、あの時だって最後には涼矢のペニスによって満たされたのだ。今はそれがない。その分、強めの設定にしてしまう。もちろん、涼矢のペニスならもっと強くて、熱いのだけれど。
「あっ、あっ、あっ、イク、涼矢、イクッ。」
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