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第899話 月影 (1)
一年生の秋から始めた塾講師のアルバイト。それ以前には十日間ほどの水泳インストラクターの経験しかない和樹にとっては何もかもが初めての経験だった。対外的な電話応対も交通費の精算もここで初めて教わった。
それから、小嶋と久家に出会った。一時期体調が優れず「がんの再発」が頭をよぎった小嶋だったが、検査の結果はそれとは別件の病気だった。今は回復して、またフルに教壇に立っている。そのおかげもあって和樹も二月末での退職を言いやすかったのだが、病気がちのパートナーを支える久家が少々心配だった。
「まあ、年が年だからねえ。誰だってガタが来るよ。」
久家はそれでもいつも通りの柔和な表情を崩さない。
今日はその久家に誘われて夕食を共にしている。以前、森川も交えて連れてきてもらった居酒屋だ。久家はその後も通っているらしいが、和樹は盲腸に倒れた時以来の再訪だ。迷惑をかけたはずの店主らと顔を合わせるのは若干気まずかったが、あの時はお世話になりましたと挨拶すると、ひとつ肩の荷が下りたような気はした。
あの日は小上がりの席だったが、今日は二人だけなのでカウンターで横並びに座った。
「おいくつ違うんでしたっけ。」
「三つかな。僕の頭が淋しいもんだから、いつもこっちが年上に見られてたけど、最近は彼がめっきり老け込んじゃったんで、ちゃんと向こうが年上に見えるようになった。」
「そんな。」なんと返せば失礼にならないのだろうと考えているうちにタイミングを逃す。
「都倉くん、もうお酒飲めるんだっけ。」
「いえ、あと十日ぐらい経たないと。」
「おや、それは残念。きみとお酒を酌み交わしてみたかったねえ。」
和樹の退職日までの間に、二人が同日同シフトになるのは今日が最後だった。
「いつでも誘ってください。飛んできますよ。」
「嫌でしょう、そんなの。休日に上司に呼び出されるようなもので。」
「そんなことないです。本当に……久家先生にはまだ教えていただきたいこと、たくさんあるんですから。」
「ここでは『先生』はなしですよ。」
「あっ、そうでした。」
どこに保護者や関係者がいるか分からない。ちょっとした生徒の話題でも尾ひれが付いて変な噂になってしまいかねない。だからこうして塾からは一駅分ほども歩いた場所にある居酒屋まで足を運び、「先生」と呼び合うこともしない。そういうルールになっていた。
「僕に教えて欲しいというのは、教育を仕事にするということについてですか。それとも。」
同性カップルの先輩として。その言葉はどちらも言わなかった。
「……両方、です。ていうか、それだけでもないです。もっと、なんていうか、大きい視点の。」
「人間、いかに生きるべきか、といったことですか?」
久家はそう言って笑ったが、あながち間違いではないと和樹は思う。
「森川せ、いや、森川さん、正社員になるんですよね。」
先日、久家がそれに伴う手続きの話を事務員の菊池としていたのを聞いた。教育を仕事にする、と言われてその場面を思い出した。
「ああ、そうそう。まあ、待遇面では大して変わりはないんだけど。」
「今まで契約社員だったんですよね? ご本人の希望だったんですか?」
「そう。ご実家のパン屋さんを継ぐんだか継がないんだかがずっと決まらなくてね。結局弟さんが継ぐことに決まって、晴れてこちらに専念できるということになって。」
「ああ、まだそこのパン、食べてないんですよね。買いに行こうって思ってたのに、つい忘れちゃう。」
「美味しいですよ。昔ながらのあんパンとかコッペパンにいろいろ挟んであるのとか。でも、弟さんの代に代わったら変わるかもしれませんねえ。弟さんは別のお店で修業してたようですから。もっと小洒落た感じのね、こう、代官山とかにありそうな。」
「代官山。」
そう繰り返して和樹は笑った。とはいえ、代官山なる場所は話には聞くが行ったことがない。今の久家のように「お洒落な街」の代名詞として聞くから、そういうところなのだろうと想像するだけだ。
「弟さん、品揃えの路線が違うから、実家は継がずに別に自分のお店が持ちたいと言っていたけど、今度結婚が決まって何かと物入りにもなるので、結局実家に戻ることになったそうです。」
「結婚、弟さんに先越されちゃったんですね。」
「ですね。相手のお腹にはもう赤ちゃんもいるそうだから。」
「おかげで森川さんは心置きなく正社員になれたってわけですね。良かったです。」
「僕としてはちょっと複雑ですけども。」
「そうなんですか? どうしてです?」
「もちろん僕自身、やり甲斐があって良い仕事だとは思うけど、収入面は決して良くはないし、休みだって世の中と逆だし、妻子を抱えるとなるとなかなか大変な業界なんでね。そういう世界に引っ張り込んだ責任を感じるんですよ。」
「森川さん、こども三人ぐらい欲しいっておっしゃってましたね。」
急にそんなことを思い出して、思い出すと同時に口をついた。
「都倉くん、パートナーと長くうまくやっていく秘訣は、自分の手にしたものが、いかに貴重で素晴らしいかを忘れないことです。」
「えっ?」
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