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第900話 月影 (2)

 今しがたの自分の発言が唐突すぎたように思えて反省したところだというのに、それに対する久家の言葉は更に脈絡のないものだった。当の久家は気にする素振りもなく続ける。 「隣の芝生は常に青いものですが、それに振り回されていては切りがない。自分には絶対に手に入れられないものを誰かが持っているとか、手に入れることはできても、自分はものすごく苦労しなきゃならないものをいとも簡単に入手できる人がいるとか、そういう不公平感は誰にでもあるし、実際世の中は不公平です。でも、自分が何も持っていないかと言ったらそうじゃない。少なくとも心から愛せる人がいるなら、そんなに素晴らしいことはない。他のことはおまけみたいなもんです。常にそう思い続けることは難しいけれど、なんで自分だけ、と落ち込む時にはそう考えるといいと思います。」  喫茶店のマスターが同じようなことを言っていた、と和樹は思い出す。 ――俺に向けて言ったというよりは、たぶん、涼矢に向けての言葉だった。涼矢に、その名前を生まれたばかりの子につけてもいいかと尋ね、涼矢は自分がゲイであることを告げて――泣いた。あの涙を、俺は生涯忘れないだろう。それがどうかしたんですかと涼矢の頭を優しく撫でたマスターの微笑も。 ――あの瞬間だ。あの時のマスターが、涼矢を苦しめていた枷を壊してくれたのだ。あいつの重荷のすべてではないにしろ、長いこと大きな負担になっていたものを。 「……前にもそういうこと、言われたことあります。誰かを本気で好きになるって、人生で一番大事なことだって。」  帰り際にマスターに言われたその言葉を、あの時の涼矢なら素直に聞けただろう。店に入る前の涼矢なら無理だったに違いないけれど。ゲイであることに苦しんできた涼矢を解放してやりたいと思うし、誰よりもそう思っているという自負はある。でも、実際に彼を解き放ってくれているのは、いつも自分以外の誰かだ。マスターや、その奥さんの夏鈴さんや、アリスさんや……哲だってある意味、そうだろう。涼矢が楽になるならそれでいいと思いつつ、そういうことがあるたびに自分の非力を思い知らされる。 「久家さんも、なんで自分だけ、と落ち込むことはあるんですか。」 「ありますよ、そりゃあ。でも、僕の場合は、ヒデさんがまた僕より先に落ち込む人だから、それを慰めてるといつの間にか自分も立ち直っちゃってますね。もしかしたらヒデさんが僕のために一芝居打ってんじゃないかと思うこともあります。」  ヒデさん。パートナーの小嶋英機のことをプライベートではそう呼んでいるとは聞いたことがある。小嶋は今でこそ身体を壊して痩せてしまっているが、昔の写真ではがっしりとした大男で、和樹や生徒たちに対する態度はどちらかと言うと威圧的だ。立場が上なのだから当然と言えば当然だが、フレンドリーな態度の教師も多い最近では少数派のタイプと言える。そのあたりからも久家より先に落ち込むような繊細なタイプには見えないから、「一芝居説」を支持したいところだ。  小嶋の顔をぼんやりと思い浮かべていると久家が続けた。「子はかすがいって言葉は御存じですか。」 「あ、はい。夫婦仲を取り持つのはこども、みたいな意味ですよね。」 「かすがいって何だか分かります?」 「そう言われてみると……くさびみたいなものでしたっけ。」 「くさびを打つ、だと仲の良い二人の間を割る意味になってしまうので逆なんですけども。」久家は笑った。「かすがいは、形としてはホチキスの針のようなコの字型をしていて、木材どうしをつなぎとめるものです。」 「なんとなく想像できました。」 「まあ、そのかすがいをね、基本的には持てないわけです。我々は。」 「……はい。」 「お互いがそっぽを向いていても、相手のことなんか忘れて好き勝手していても、かすがいとなってくれる存在があれば、再び引き寄せてもらえることもあるでしょう。でも、それがない限りは、その分、努力しなきゃならない。もちろんいろんなパターンはありますよ。こどもがかすがいにならない夫婦なんていくらでもいるでしょうし、かすがいこそが原因で亀裂が入る家庭もあります。一方では努力らしい努力なんかしてなくてもラブラブなカップルもいる。羨ましい限りですが。まあでも、総じてはね、法律に守ってもらえることもなく、こどもがかすがいになってくれることもない関係を繋ぎ止めているのは、お互いの気持ち、それだけなんですよ。だから、忘れちゃいけないんです、相手と出会えたことが自分にとってどれほどの宝物なのかってこと。その宝物はしまいこんでご神体なんかにしないで、手元に置いて折に触れ磨いたほうがいい。そういう話です。」 「……すっごい、お好きなんですね、小嶋せ……小嶋さんのこと。」 「改めて言わないでくださいよ、そのために、そのへんはボカしてお話したでしょう。」  久家は照れ臭そうに笑った。 「でも、そうですよね?」

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