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第901話 月影 (3)
「そうですよ。……もうね、生きてるだけでいいです、あの人は。何もしてくれなくていい。彼が病に倒れた時に思ったんですよ、何も要らない、命だけは助けてくれって。胃を全摘したって構わない、なんだったら目が見えなくても足が動かなくてもいいから、助けてくれって。彼がいなくなったら、その先、どうやって生きて行けばいいのかと怖くて仕方なかったです。でも、その後、お義母さんが亡くなったでしょう。それからまた少し気持ちが変わりました。もちろん生きててくれるに越したことはないんだけど、もし今彼の寿命が来てしまって、僕一人になっても、そこそこ幸せに生きていけそうだなあって思うようになりました。彼との思い出もあるし、彼から好かれてた自分を大事にできそうな気がしました。……あ、まだ生きてますけど。しぶといですよね、彼。」
最後は冗談めかしてそんなことを言う久家だったが、和樹は一緒に笑うことはできなかった。
「なんてね、今の話は、老い先が見えてきた僕の考えることで、都倉くんはそんなことは考える時じゃないです。今はもっと、二人でいろんなこと話して、気持ちをぶつけあったほうがいい。ただ、その時にね、ちゃんと好きだってことは伝わるようにしたほうがいいと思う。特に遠距離なんてね、不安があって当たり前なんだから、ひとつひとつ丁寧にしていかないと。まあ、僕が言うまでもないでしょうが。」
「いえ、肝に銘じます。……つい、言わなくても分かるだろって思っちゃうんで、俺。」
「言わなくても分かるなんて驕りですよ。言わなきゃだめだし、言ってもらわないと。」
「久家さんも言わせてるんですか?」
「僕は言わせてない、向こうが勝手に言ってくるんです。」
「想像つかないです。小嶋さんがそんな甘い言葉とか。」
「甘い言葉じゃなくてもいいんですよ。月がきれいだから窓開けて見てごらんとか、そういうので。」
「うわ、充分甘いですよ。」
「そうですかね。」
「夏目漱石でしたっけ。アイラブユーを月がきれいですねって訳したの。」
「俗説ですが、そんな話もありますね。でも、そう言ってアイラブユーと言われてるんだと理解してもらうには、相手も同じ感性と知性の持ち主でいないといけないでしょ。よほどの自信がある時以外は実践的なセリフではないと思いますね。」
「でも、小嶋さんと久家さんの間では伝わる。」
「例えに出した文がまずかったなあ。」久家は苦笑しながら焼酎を飲んだ。「なんでもいいんですよ。何かを食べたら美味しいねとか、怖い映画を見たら怖かったねとか、相手と体験の共有をしたい、共有できたら嬉しいって伝えることが大事ってことです。」
「遠距離だからなぁ……。」和樹は呟いた体験を共有できる機会は限られている。
「それ、美味しい?」久家がまた突然違う話題を始めた。それ、と視線で示しているのは鶏の唐揚げだ。
「はい。前回森川さんが頼んでて、すごく美味しそうだったのに食べ損ねたからリベンジ。」
「それを彼にも食べさせてあげたいなあ、なんて思いません?」
ああ、そういう話に繋げたかったのか、と和樹は思う。「うーん、これに関しては、あんまり思わないです。でも、久家さんのおっしゃりたいことは分かります。」
「これはダメだったか。」久家は店員がこちらの会話を聞いていないことを確認しながら、そっと言った。
「ダメってことはないんですけど。ただ、あいつ、料理得意だし、舌も肥えてるから、なかなかそんじょそこらのものでは。」
「それはそれは。」久家は笑った。
「でも、分かります。うちの近くにちょっといい雰囲気の喫茶店があるんです。初めてそこに一人で行った時、コーヒーがすごく美味しくて、あいつのこと連れてきたいなあって思いましたから。」
「実際、行けました?」
「はい、何回か。そこのマスターが本当にいい人で。あ、そうそう、そのマスターにこどもが生まれて、その名前が涼矢っていうんです。あいつの名前と同じ。」
「ほう、偶然?」
「いえ、あいつ、マスターに気に入られてるんですよ。それで、わざわざこどもにあなたの名前をつけてもいいですかって確認してくださって。」
「それはすごい。」
「ですよね。……すごく嬉しかったんです、俺。」
「ん? 彼氏の名前をつけてもらえたことが?」
「はい。でも、それだけじゃなくて……なんだろう、うまく言えないんですけど。あいつは、ずっと同性愛者であることに傷ついてきたんですよね。俺と出会う前から。出会ってからもですけど。だから、その時も俺はただ、自分の名前をそんなに気に入ってもらえるなんてすげえな、良かったなって、はしゃいでたけど、あいつはそうはなれなかった。……泣いたんですよ、あいつ。そう言ってもらえるのは嬉しいけど、自分はゲイだからって。」
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