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第902話 月影 (4)
「ゲイだから、こどもの名前に相応しくない、と?」
「はい。俺、そんな風に考えたことなかったから、どうしていいか分からなかったです、正直。でも、マスターは、それがどうかしたんですかって。驚きもしないし、変な顔もしないで、本当に普通に、そう言ってくれたんです。それも嬉しかったし、その言葉を聞いて、涼矢はまた泣いて、それでその子が同じ名前になることを受け入れて……そういうのが全部、嬉しかったんです。こいつは自分が自分であることをようやく受け入れられたんだなって。俺は当たり前にできてたことだけど、あいつはそうじゃなくて、ずっと苦しんでたんだってことも知って、複雑でもあったかな。俺、あいつの近くにいたのに気付いてやれてなかったんだなあって。……すみません、うまく説明できなくて。」
「いや、分かりますよ。僕は自分の恋愛対象についてさほど悩まずに来ちゃったんだけど、ヒデさんはああいう家に育ってるでしょ。そもそもが同じ地平にいない感じがずっとあってね。今でもですよ。何十年と一緒に暮らしてきて、いまだに彼は僕に申し訳なさそうにすることがある。まるで彼が僕を悪の道に引きずり込んだかのようにね。」
「小嶋さんから、だったんですか? その、告白というか。きっかけは」
「いえ、僕です。僕から言った。」久家は照れ笑いをする。「でも、告白とは違うかなあ。僕は彼と距離を置くつもりで言ったから。」そこでいったん言葉を切ると、うんと小声になった。「ヒデさんはノンケだと思ってたし。」
ノンケ、という言葉を知ったのはいつだったか、と和樹は思う。単語とその意味なら随分前から知っていた気がするが、それを自分に関わりのある言葉としてとらえるようになったのは最近だ。思い出せる限りで言えば倉田に言われたのが最初だったと思う。哲と別れた直後のことだ。倉田はその淋しさを誰かに転嫁したかったのか、彼氏もさぞ不安だろうなどと言って和樹を煽ったのだ。「ノンケ」のイケメンである和樹との遠距離恋愛だなんて、と。
その後にも誰かからノンケだと言われた覚えがある。誰だっただろう。
「それは……そういうのって、やっぱり、慎重になるもんですか?」
「会社の同僚で、家族ぐるみで仲良くしてもらってた相手でしたからね、いろいろ覚悟しますよね、それは。だからもうこれで二度と会えなくなるなあと思いながら言いました。」
涼矢と同じだ。あいつも俺が東京の大学に行くと知って、初めて告白を決意したと言っていた。恋人になりたいがための告白ではない。想いを断つための告白。
「その時、小嶋さんはなんて?」
「参った、また都倉くんの尋問タイムだ。」
「尋問じゃないですよ。言いたくなければ無理にとは言いません。」
「きみに聞かれると嘘つけなくて困りますね。」久家は苦笑しつつも不愉快そうではない。「その時は何も言ってくれませんでしたよ。僕が言い逃げしちゃったからね。でも、その後すぐ僕の煙草を持ってきて、喫煙所の話し相手がいなくてつまらん、なんて言うもんだから、禁煙しそびれました。気持ちも煙草も、そこですっぱり断ち切ろうと思ってたのにね。」
「で、現在に至るまで続いてらっしゃる。」
「そう、そして、いまだに禁煙できてない。」
久家の視線が卓上調味料に移った。塩か醤油でも欲しいのかと思ったが、今の二人の前に並んでいる料理には調味料を使う必要がない。そう思った瞬間に、醤油差しの陰に煙草の絵のようなものがチラリと見えた。灰皿でもあるのだろうか。久家は喫煙者だ。今もまさにその話題をしていた。
「あ、いいですよ、煙草。」
久家は前回この店に来た時も吸っていただろうか。思い出そうとしたが、盲腸の痛みまで思い出しそうになり、やめた。
「ダメなんだよ。」
久家が苦笑しながら指差した方向を見るとカードスタンド状の物があり、カードには灰皿のイラストの上に×が描かれ、「全席禁煙」と書いてあった。
「もうほぼ家でしか吸えなくなったね。と言っても、家は家でヒデさん吸えないのに僕だけ吸うってのもね。」久家は和樹のほうを見て、にっこりと笑った。「でも、それが他人と生活するということですから。」
「窮屈ですか?」
久家の顔を見ればそんなはずがないことは分かっているが、あえて聞いた。
「窮屈ですよ。我慢も妥協も譲歩もしなきゃならない。でも、それ以上にいいこともありますからねえ。」
「一緒に暮らすメリットってなんですかね。あ、もちろん、好きな人と一緒にいたいのは分かりますけど、我慢も妥協もしなくちゃいけなくて、それでも一緒に暮らしたほうがいいですか?」
「人それぞれでしょうけれど、僕の場合は、日々を大事にできるということでしょうか。」
「日々を大事に? それって一人暮らしじゃダメですか?」
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