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第123話 Only you(11)

「美術館て、意外と歩くよね。疲れてない?」と涼矢が言った。 「このぐらいで、そんな。」 「俺はちょっと疲れた。」 「涼矢はちゃんと集中して鑑賞するからなあ。」 「でも、今日は割と、和樹も熱心に見てたよね。」 「今日のはお遊びっぽい展示もあったし、結構おもしろかった。あ、でも、上野も、渋谷も、おまえが思ってるよりは楽しんでたと思うよ。」 「それならいいけど。」  そのベンチは、何を目的にそこに置かれているのか不明だった。バス停などがあるわけでもなく、疲れた人が休むなら、もう少し頑張って公園内のベンチに座ったほうが、木々に囲まれ、よほど安らぐだろう。ここからでは住宅街しか見えない。おそらくは、そこに半端なスペースがあった、それだけの理由で置かれているものだった。  だったら、和樹たちは何故公園のベンチに座らなかったのかという話だが、それはやはり多少の人目を気にしたのだった。眼前をウォーキングやジョギングの人がひっきりなしに行きかうベンチに若い男2人で座るのは、どうも気が進まなかった。お互いそうとは言い出さなかったけれど。  その点、スペースの埋め草のこのベンチは、誰からの注目も浴びそうになかった。言い方を変えれば、誰かに見られる心配が少なそうに思えた。強いて言えば今さっきの自分たちのように公園から出てくる人がいるかもしれないが、それは階段を下りてくる気配に気を付けていればいいだけだ。  ふとした沈黙が数分続いて、涼矢が和樹の手を握った。それから、「いい?」とだけ言って、顔を傾けて、探るように和樹の顔を覗き込んだ。和樹が目をつぶったので、そのままキスをした。  誰もいない。そうは思っても完全な外だ。唇を離して、緊張した、と涼矢が言いかけた時に足元を黒い塊が通り抜けた。だから、涼矢の口からは「きっ!!」という奇妙な叫び声が上がってしまった。 「……犬。」と和樹が呟いた時に、この黒犬の後ろから女性が現れた。ベンチから死角となるところに細い路地があり、そこから出てきたようだ。犬にはリードがついていたが、伸縮式リードで、かなり長く伸びている。その端を握る女性の「レオ、ちょっと待って」と焦った声からして、予想外に犬が急に走り出してしまった、といったところだ。  犬は和樹の足元にじゃれつこうとして、「こらっ、だめっ。」と飼い主に止められた。それでも隙あらばじゃれつこうとする犬。飼い主は犬を叱る合間に和樹たちに何度も頭を下げた。「すみません、本当にもう、急に走り出しちゃって。あ、こら、レオッ!!」言っている矢先に、また犬は和樹にすりよってくる。 「お、よしよし。」と和樹が言って、その犬の頭を撫でた。 「すみません、大丈夫ですか。」 「平気です、てか、大好きなんで、犬。……柴?」 「そうです、柴。」 「黒柴の名前が、レオ?」  女性は笑って「西武ファンなのよ、主人が。私は阪神ファンなんで揉めたんだけどね。」と言った。女性は30代後半ぐらいだろうか。屈託なく話し掛けてくる和樹に対して、気が緩んだように砕けた口調になった。 「てことは、虎かライオンかで。」 「考えてみたらおかしいよね、犬なのに。」 「ジャビットは候補にならなかったんだ?」 「それだけはない。夫婦ともアンチだから。」 「東京の人はみんな巨人かヤクルトのファンなんだと思った。」 「ないない。東京は地方出身の集まりだからね、いろいろよ。私なんかは祖父の代から東京なのに、何故か阪神ファンになっちゃった。いろいろいるから、そういう人もいっぱいいるし、なんでもアリよ。」 「そっか。」 「きみも、地方から?」 「ええ、4月からこっちに。」 「そう、がんばってね。」 「はい。ありがとうございます。」 「それじゃあね、レオの相手してくれてありがとう。」女性はレオを軽く引っ張り、その場を離れた。和樹たちは軽く会釈をして済ませたが、女性は2、3歩歩くと顔だけ振り向いて、「それと、ごめんね、デートの邪魔して。あのね、ここ、あそこのカーブミラーに映るから、気を付けてね。」と言い、ニヤリとして、今度こそ、その場を離れた。レオに引きずられるように早歩きだったから、その姿はあっという間に遠ざかった。  女性の言うカーブミラーを2人は見上げた。 「東京にはいろいろな人がいるなあ。」と和樹が呟いた。 「そうみたいだな。」と涼矢も呟いた。 「……帰りましょうか。」 「はい。」  帰りは、公園を通らずに、女性が出てきた細道を行ってみた。公園の中を通り抜けるよりは遠回りだが、階段を使わずに駅前まで出られることが分かった。道幅が狭く、車がほとんど通らないので、お年寄りや幼児、それからさっきの人みたいに犬を連れた人にとっては安全でいいのかもしれない。 「新しい道をひとつ覚えた。」と和樹が言った。 「うん。あとカーブミラーに気を付けることを覚えた。」 「だね。」 「ごめんな。」 「何が。」 「そういうことに気が回らず、ああいうことして。」 「それは、俺だって同じだし。」 「あとちょっと、家まで我慢すりゃよかったんだけどね。」 「それも同じく、だし。」 「アパート着いたらさ。」 「ん?」 「我慢しなくていい?」涼矢は和樹を横目で見る。 「え……ああ、うん。」 「それは、同じくじゃない?」 「……同じくだよ。」  涼矢はフフッと小さく笑った。

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