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第130話 Only you(18)

「いやぁ、疲れた疲れた。思ったより本格的で。……あ、それ読んでるの。やべ、その本、そろそろ返却期限だ。」靴を脱ぎながら和樹が言う。 「もう読んだの、全部?」 「読んだ。あとは返すだけ。それ、面白いよね。」 「うん。……図書館、近い?」 「ちょっと遠い。でも、返すのは、図書館まで行かなくてもいいんだ、返却用のポストが駅前にあるから。いつだっけな、期限。それに紙、挟まってない?」  涼矢は本のページをパラパラとめくる。最終ページに紙があった。貸出内容がプリントされている。「明後日まで。」 「じゃあ大丈夫だな。もうすぐ読み終わるだろ? 読み終わったら一緒に返しに行こ。」 「うん。」  和樹は涼矢の隣に座る。「ああ、疲れた。」と、また繰り返した。 「お疲れ。」 「ホワイトボードの使い方まで決まっててさ。書きながら説明する時、生徒にお尻向けちゃダメとか。」 「へえ。」 「ああ、それから、まともな格好して行って正解だった。俺以外の講師は専任の社員で、その人たちはみんな基本スーツなんだって。俺はそこまでじゃなくてもいいけど、Tシャツ・ジーパンはできるだけ避けてほしいってさ。サンダルは厳禁。その割にピアスはよっぽど派手じゃなければOKだって言うから、基準がよく分かんないんだけど。」 「慣れるまで大変そうだな。」 「うん。」和樹は涼矢の肩にコテンと頭をのせた。「疲れた。」 「そればっかり。」 「ずっとおまえといて、ラクしてたからさ、久々に他人と会ったらすげえ疲れちゃって。」  俺といるのはラクなのか。俺は「疲れる他人」じゃないのか。 「何だよ、ニヤニヤして。」和樹は上目遣いで涼矢を見た。  その顎を引き寄せて、涼矢は和樹にキスをした。「淋しかったよ、おまえいなくて。」 「はは。」和樹は涼矢の肩に本格的に寄りかかる。「でも、慣れなくちゃな。お互いがいないことにも。……来週には、もう、おまえいないし。」  涼矢は和樹の肩に腕を回して、抱き寄せた。 「ずっとこうしていられたらいいんだけどね。」と和樹が呟いた。 「……うん。」 「このままじゃダメだよなあ。」 「えっ?」涼矢は眉をピクリと上げて、和樹を見つめた。 「えっ、って何でそんなビックリしてるの。」 「このままじゃ嫌?」 「嫌じゃなくて、ダメって言ったの。あと1年もしたら就職活動だってしなきゃいけないし。今だけだろ、こんな風にだらだらとしていられるのは。」 「……ああ、そういう意味の。」 「何だと思ったんだよ。」 「今の状況が不満なのかなって。」 「どうしてそういう発想になるんだよ。」和樹は笑った。「ホント、おまえってマイナス思考。」 「ごめん。」 「それとさ、言い忘れてたんだけど。」 「何。」 「俺、初めておかえりって言われた。さっき涼矢に言われたのが、この部屋に来てから、初めてのおかえりだった。」 「え、そうなの? エミリがいた時は?」 「エミリは、わざとだと思うんだけど、それ的な挨拶は全部、『お邪魔します』と『失礼します』だった。俺のほうは『行ってきます』も『ただいま』も『おかえり』も言ってたけど、絶対エミリは『失礼します』とか『お邪魔してます』とかって返してきて。」 「徹底してるな。」 「それが、あいつなりの筋の通し方だったんだろうな。まあ、それでもね、挨拶する相手がいるっていいなあとは思ったよ。……けど、やっぱ、さっきみたいに、ただいまって言って、おかえりって言われるのは、比べもんにならないぐらい、すげえ、いい。」 「それは、『おかえり』って言葉がいいの? それとも」  涼矢が言い終わらない内に和樹が言う。「おまえに言ってもらえるから、いいんだ。」 「……俺の扱い方がだいぶ分かってきたよね?」 「うん。」和樹は笑った。「だからさ、1個、目標できた。」 「目標?」 「おまえと、おかえりとか、ただいまとか、毎日言い合える日のために、頑張る。……俺さ、ずっと考えてたんだよね。俺らってどういう風になっていくのがいいのかなって。どこにゴールを置けばいいんだろうって。」  涼矢は和樹の言葉に驚いて、また眉を上げた。――和樹が、自分と同じことを考えていた。  和樹は続けた。「もちろん、ちゃんと4年で大学卒業するとか、就職するとか、それも目標だけど、それは俺の個人的な目標じゃない? おまえだったら、司法試験合格とか? それはそれとしてあるんだけど、2人で目指す目標っていうか。同棲かなとも思ったし、養子縁組かなとも思った。でも、そうじゃないなって。それって目標じゃなくて、手段だよね。俺が目指してるゴールはそこじゃない。それをずっと考えてたんだけど、さっき、涼矢におかえりって言ってもらった時、あ、これ、いいなーって思ったんだ。これが毎日続けばいいなって。つまり、朝起きたらおはようって言えて、おかえり、ただいまって言い合えて、そういう風に、おまえと暮らせる日が来るといいなあって、思った。……というわけで、当面の目標を、俺はそれにしたいと思います。異議は認めない。」 「異議は……ありません。」涼矢は両腕を和樹に回して、強くハグした。「俺の目標もそれにする。」 「そりゃそうだよ、2人の目標だもん。一緒に目指すんだよ。」和樹が涼矢の頭を撫でた。 「うん。頑張る。」ぎゅっと抱きしめた和樹からは、和樹の匂いがちゃんとして、涼矢はそのことに、この上なく、安堵した。

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