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第904話 月影 (6)

「大事なものだとは聞いてましたけど……。本当にいただいて良かったんでしょうか。」 「もちろんです。あのね、その写真が出来上がってきたのを見て、ヒデさん、たぶん、想像以上に自分が衰えていることに気付いたんですよ。と言っても悲観的になったわけではないんです。僕も早坂も頑張って昔に戻そう戻そうとしてたけど、そうじゃない。時計の針を戻すことは誰にも出来ない。それより今の自分がどうあるべきかを考えはじめた。それで彼、身の回りのものをどんどん処分するようになったんです。断捨離って言うんですかね。あんまりどんどん捨てようとするから、僕がこっそりゴミ袋から回収してきたものも結構あります。その中にあのスーツもあった。あっ、それは箱のまま玄関先に出ていただけで、ゴミになる前だからご安心を。」  それは断捨離というよりは、死に支度ではなかったのか、と和樹は想像した。 「すみません、話が逸れちゃいましたね。何が言いたいかと言うと、そうやってどんどんそぎ落とした末に、彼、僕がいればいいと言ったんですよ。死ぬ時にノブがいて、手の一つも握ってくれたらそれでいいんだ、なんて。」久家はそこでニヤリと笑った。「いい話でしょ?」 「……はい。」和樹も笑う。 「でも、そこなんですよ。それゃいいですよ、ヒデさんは。死んじゃう人はいいです。でも、僕はどうするのって話ですよ。大事なスーツも処分して、茶碗と箸さえあればいいなんて、なんでもかんでも要らないって捨てられちゃって、空っぽの部屋で一人で暮らせとでも言うんでしょうか。二人で旅行に行った時の写真を見て懐かしむことも、二人が好きだったレコードを聴くこともさせてもらえないのかって。あ、うち、いまだにレコードもレコードプレーヤーも現役なんですよ。彼の趣味でね。そのへんのものも一時は誰かに譲ろうとしていて、僕が止めました。だって、ねえ、頭の中の記憶だけじゃ心許ないですよ。お母さんみたいにみんな忘れちゃうかもしれないでしょ。執着するのはよくないって言うけど、僕は執着しますよ、彼の持ち物にも、彼との思い出の品にもね。その時に思いました。そういうものを守るためにも、法律の裏付けが必要なんだと。」 「え、でも、養子縁組すれば捨てられないで済むというわけじゃないですよね?」 「もちろんそうですけど、そうする前の僕は、彼名義の家に転がり込んでいる単なる同居人に過ぎなくて……ええと、説明するのに一番分かりやすいのはお金、遺産ですかね。彼がいくら僕にぜんぶ譲ると言ってくれたって、同居人に過ぎなければ身内より立場が弱い。何十年一緒に暮らしてたってそうです。あの妹にビタ一文やりたくないって言ってるんじゃありません。ただ、法で認められた夫婦だったら認めてもらえたはずの二人の繋がりが無視されるというのはちょっとやりきれないし、彼と二人で築き上げてきたものを別の誰かに管理されるなんてまっぴらごめんだと思ったんです。その点でも養子縁組しておいてよかったなと思いました。もちろん、第一の理由は、さっききみが言ってた手術や入院のことです。ICUに入ったら面会できるのは身内だけだって言われたしね。でも、縁組した後になって彼の断捨離ブームがあったりお母さんが亡くなったりと諸々のことがあって、今まで随分宙ぶらりんの関係だったんだなあと気付かされた気はします。」 「宙ぶらりん……。」  和樹は口の中で久家の言葉を復唱した。 「あ、なんだか脅かすような話になっていたら申し訳ない。あくまでもこれは僕たちのケースですよ。いや、僕のケース、かな。ヒデさんがどう思ってるかも知らないしね。縁組に頼らず幸せに暮らすカップルはいるし、法律に縛られるのは嫌だと、あえてその選択をしないカップルもいます。これは男女カップルでも同じことが言えますがね。今はパートナーシップ制度を採用している自治体もありますから、目的によってはそれでいいという人もいるでしょう。大事なのは、二人でそういうことをちゃんと話し合える関係を築くことだと思います。これはね、僕が思うに、同性カップルのいいところです。」 「え、いいところ、ですか?」 「都倉くんは女性とおつきあいしたことは?」  久家の不意打ちに和樹は誤魔化す術もなく答えた。 「あ、あります。あるというか、今の相手の前はずっとそうでした。」 「そう。それなら想像できると思うけど、成人の男女で付き合う分には、結婚するのに理由は要らないじゃないですか。お互い好きだから結婚しましょう、で済む。」 「はい。」 「むしろ結婚しないことに理由を求められることのほうが多い。長く同棲していても婚姻関係にならないカップルなら、周りの人に、まだ結婚しないの? どうして? なんてことまで口出しをされたりする。好き合った男女が一緒にいたいと思えば、結婚という形式をとるのが、普通の、常識的な、責任ある大人の振る舞いとされているからです。」 「……俺たちとは違います、ね。」

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