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第906話 月影 (8)
明生だ、と分かって振り返ったはずだが、予想していた視線より十センチほど高いところにその顔があった。しかも眼鏡をかけている。
「明生、おまえ随分デカくなったなあ。」
思わずそんな言葉が出た。下の名前での呼びかけはNGだと早坂に言われていたし、ずっとそれを守ってきたはずだが、この時だけはすっぽり抜けてしまった。
「僕、この一年で十センチ伸びたんです。……でも、今頃気が付いたんですか。先週だって会ったのに。」
その声だって心なしか以前より低く落ち着いた声に聞こえた。
「こんな風に面と向かって話すのは久しぶりだからな。元気か。」
「元気ですよ。」明生は控えめにガッツポーズのような仕草をした。「先生、もうすぐ誕生日でしょ。二十歳だよね?」
「うん、二十歳。それにしても、去年は菜月がいたからギャーギャー騒がれたけど、今年は全然だな。俺の人気も陰りが見えてきたか……。」
「そ、そんなことないですよ。」
冗談のつもりで言ったのに明生が焦った様子でフォローするので、却って気まずくなり、話題を変えた。
「そういえば高専に興味あるんだって?」
「どうして知ってるんですか。……あ。」
涼矢の名前が出てきそうな気配を感じて、すかさず「久家先生に聞いた」と言う。
「ああ、そっかぁ。」
「そういうのに興味があるって知らなかった。」
「まだ決めたわけじゃないです。そういう高校もあるのか、って思っただけで。僕、文系だし。」
「文系か理系かなんて、それこそまだ決めなくていいだろ? 確か理系の成績だってそんなに悪くない。」
和樹は目の前のパソコンで明生のデータを参照しようとして、やめた。受け持ちでもないのに越権行為の気がしたのだ。本人から直接相談でもあったのなら別だが、涼矢や久家には話しても自分には言わないというのが明生の決断で、だったらそこまで踏み込む必要もない。
明生のほうに目を向けると、何故か明生はやけにニコニコして機嫌がいい。
「どうした?」
「都倉先生と話すの久しぶりだなって思って。それに。」
明生はそこで黙ってしまった。
「それに?」
「やっぱりいいです。なんでもないです。」
「なんだよもう、気になっちゃうだろ。」
和樹はわざと砕けた物言いをする。
「……先生が僕のこと、まだ少しは気にしてくれるのが、ちょっと、嬉しいっていうか。」
この時ばかりは以前の明生と変わらず、もじもじとうつむきがちで話す。その姿を見て、和樹は自分のほうこそ明生に忘れ去られた気になって拗ねていたことに気付いた。
「当たり前だろう? なんたって明生は俺の生徒第一号なんだから。」
「えっ、でも僕、この塾入ったのはみんなより遅くて……あ、そうか、水泳教室。」
「そうそう。菜月もな。」
「菜月は他の塾に移っちゃったからノーカンだよ。」明生はぶつぶつと文句を言ったが、最後には「でも、今の塾はすっごくいっぱい宿題出て大変なんだって。」とフォローのように付け加えた。
「うちは宿題少ないもんなあ。」
「そこがいいんです。」
明生はニヤッと笑い、そして、その場を離れて教室へと向かっていった。
宿題が少ないのも、小学生クラスの授業が他の塾より早く終わるのも、教室長の早坂の方針だ。
――俺は宿題たっぷりあるような気がするけど。
和樹は椅子の背もたれに寄りかかり、ハア、とため息をついた。
「あら、だめですよ、そんなため息ついちゃ。」
菊池の声がする。彼女の存在をすっかり忘れていて、驚きのあまり危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「失礼しました。」
「幸せが逃げていくって言うじゃありませんか。」
「ですよね。」
「そう言えば都倉先生にお会いできるのもあと少しですね。淋しくなります。」
「はい、俺も。」
「ま、それ本当?」
「本当ですよ。先生たちにはいろんなこと教えていただいたし、こどもたちは可愛いし。週の半分はここに来ていて、もう、生活の一部になってましたから。」
「あらやだ、私に会えなくなるのが淋しいって話ではないのね?」
「……ああ、もちろん、そうです。淋しいです。いつも飴とかチョコとか、ありがとうございました。」
「お菓子で釣ろうとしてたわけじゃないですよ。」
菊池はそう言って笑った。こちらだってお菓子如きで釣られるはずがないと返そうとしたが、やめておくことにした。菊池はそういった冗談を自分では言うくせに、いざ言われる側になると不機嫌になってしまうことも多い。
――その点、あいつは楽なんだよな。言葉に裏表がなくて。
涼矢のことを思い出し、涼矢との定時電話は何時間後だろうかと時計を見た。今は空き時間だが、この後まだ一コマ残っている。それを終えてどんなに急いで帰ったとしても、三時間以上もかかる。再びため息をつきそうになるのをなんとかこらえた。
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