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第907話 月影 (9)

「頑張ってくださいね。」  菊池の声に我に返る。涼矢のことを考えていたから、涼矢との関係を頑張れと言われた気がしてしまったが、そんなはずはない。就職や教職課程の話だろう。 「はい。」  と無難に答えた。答えながら、頑張らなくちゃ、と思った。就活も教職課程も、それに涼矢とのことも。  帰宅してすぐに涼矢と話したい気持ちをこらえて、帰りがけに買ってきた肉まんを食べ、風呂を済ませた。塾バイトの日は授業の前に軽食で腹ごしらえをするが、やはり帰る頃には空腹を覚える。久家と小嶋は同じ職場だからいいだろうが、早坂は妻子と一緒の食事など滅多に取れないだろう、などと考えた。それを言ったら菊池もそうだ。家庭では妻であり母であるはずの彼女はどうやって家庭生活と両立してきたのだろう。  だが、考えてみれば、和樹の父親とて家族と一緒に食事をすることはほとんどなかったし、涼矢の家も家族全員が揃うことはめったにない。そもそも、土日が休みじゃない仕事、夜間営業がメインの仕事など、一般的な生活時間とは違う時間帯に働く職業はたくさんある。そんな中で、せめて小学生は家族と夕食が取れる時間に家に帰したい、という早坂の方針は、ささやかながらも切なる思いが込められているのかもしれないと思った。  と同時に、菓子パンを一人で食べていた、という哲のことを突然思い出した。「いただきます」を言う習慣すら身につかなかったこども時代。薄暗いアパートの一室で、痩せたこどもがひとりぽっちで菓子パンを黙々と食べている図が頭に浮かび、和樹の胸がキュッと痛くなった。――塾にはいない。塾にいるこどもたちは、少なくとも自発的に我が子に教育を受けさせようという熱意と経済力のある親がいる。 ――そうとも言い切れないぞ。  と涼矢が言った。 「でも、わざわざ塾に入れる親なんだからさ、可愛がってないことはないだろ。」 ――金払っててでも他人に押しつけたいと思ってる親だっているよ。放置したら虐待と騒がれても、塾に入れて責められることはめったにないし。 「うちの塾にはそんな子は……。」 ――外から見えることだけがすべてじゃないだろ。 「……。」  涼矢にそう言われてしまうと何も言い返せない。「外から見えないこと」でずっと苦しかった涼矢に。 ――でも、その、教室長だっけ? そういう人がいるおかげで、助かる子がいるのは事実だろうな。家族と食事がどうこうというんじゃなくて、自分のことを気にかけてくれる人がいると分かるだけで、生きる気力が保てる子はいると思う。 「……それは実体験として?」  涼矢を傷つけないようにと恐る恐るその質問を投げかけた和樹に、涼矢はあっさりと答えた。 ――まあね。実体験としても、他人(ひと)から聞いた話でも、そう思う。 「そうか。」 ――先生ってのは、大変な商売だな。責任重大。 「……だよな。俺になんか。」 ――和樹ならできるよ。向いてる。 「本当にそう思う?」 ――思う。実体験。 「いつ俺がおまえの先生になったよ。」 ――和樹がいるから、生きてるんで、俺。 「おい、いきなり重たいことぶっ込んでくるな。」 ――俺は重いだろ、前から。 「そうだけどさ。」 ――まあ、それは半分冗談。でも半分は本気。いや、三分の二ぐらいは本気。おまえにはそういう力、あると思う。周りの人間を、頑張ろうって気にさせる何かが。明生もそうだし……それに哲だって。 「哲?」  菓子パンを食べる幼い哲を想像した話はしていなかった。 ――あんなひねくれた奴が留学とか、いろいろ前向きになったのは和樹と会わせてからだ。 「それはおまえに感化されたんだろ?」 ――そうだとしても、それは俺を通しての和樹の影響があったと思う。それがなかったら、あいつも俺ももっと世をすねてて。 「爆弾でも作ってたか?」 ――いや、それはしないな。もっと陰湿な方向の。ネットで人の悪口書いたり、ハッキングしたり。 「怖えな。」和樹は苦笑する。「……でも、そんなことしないよな、実際は。おまえらは頭いいけど変なとこで不器用なだけだし。」 ――ほらね、そういう。 「へ?」 ――無意識なんだろうし、励まそうとか思ってるわけじゃないんだろうけど、こっちが言って欲しいこと言ってくれる。そういうとこがね、たぶん、先生業には向いてる。 「そうかな。」 ――あ、でも、学科指導がうまいかどうかは知らないからなあ。 「明生は分かりやすいって言ってくれるぞ。」 ――じゃあ、大丈夫なんじゃない? 「なんだよ、急に投げやりだな。」 ――だって知らないことについては勝手なこと言えないよ。生徒がそう言うならそうなんじゃないの。 「おまえのほうは、俺が言って欲しいこと、全然言ってくれねえのな?」 ――知りもしないのに絶対大丈夫だよなんて言ったら、無責任だろ。  和樹は吹き出した。 「おまえのな、おまえのそういうとこは、俺、いいと思うよ。」  言葉に嘘がないところ。涼矢の言葉はいつも誠実だ。 ――俺はおまえの全部をいいと思ってるよ。  ふいを突かれて、和樹はまた笑ってしまう。 「くっそ、ずるいだろ、今の流れでそれ。」 ――本当だよ? ケツにあるホクロに至るまで愛して止まない。 「それは言わなくていい。」

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