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第141話 幾望(11)

 実際には、涼矢は極めて「優しく」和樹に接して、そして、いつの間にか寝てしまい、結果としては2人とも数時間の睡眠をとった。部屋には外の光が差し込むような窓はなく、ふと目覚めた時に、和樹は今が朝なのか夜なのかすら定かではなかった。スマホの時刻表示を見て、朝の9時を少し回った頃合いだと知る。2時3時までは起きていたような気がするから、それでこの時間に目覚めるなら「早起き」と言っていいのではないかと思った。もともと和樹は枕が変わることは苦手な性質で、旅先などでは眠りが浅く、やたらと早朝に目が覚めてしまったりする。今のアパートのベッドでも、ぐっすり眠れるようになるまでには数週間を要した。それが、1人暮らしを始めた当初、涼矢への毎晩の電話が深夜に及んでしまった理由の一つでもある。  涼矢の部屋に初めて泊まった時もそうだった。遅くまで抱きあっていたけれど、朝は自分のほうが先に目覚めた。それでキッチンで涼矢の母親と遭遇してしまったのだ。基本的には涼矢のほうが神経質だと思うが、この点に関しては和樹のほうが繊細かもしれなかった。  和樹は上半身を起こして、涼矢の寝顔をそっと見た。和樹側に横向きになって寝ている。きれいな鼻筋。意外と長い睫毛。髭を剃ってから1日以上経過して、頬や顎がザラついてきた自分とは違い、なめらかな肌をしている。うっすらと口を開けているせいで乾燥してしまったのか、唇だけはカサついて少し皮がめくれている。その唇に、和樹は自分の唇をそっと押しあてた。 「ん……。」涼矢は寝返りを打って反対側を向いた。起きなかった。寝返りを打つ時に掛け布団を抱え込み、抱き枕のようにそれにしがみついて、寝続けた。和樹はそっとベッドから抜け出して、1人でシャワーを浴びた。バスタブには昨日のローション風呂。このお湯は、このまま普通に流してしまっていいものなのだろうかと、しばし考え込む。結局そのままにしてバスルームを出た。  部屋に戻ると、涼矢はさっきと同じポーズだった。  にも関わらず、「おはよ。」と涼矢が声をかけてきたので、和樹は驚いた。起きていたのか。 「はよ。」 「俺、いつからこの状態?」 「さっき。俺が起きて、チューしたらそうなった。」 「チューしたの?」 「うん。そしたら、それ抱えて、寝返りして。でも起きなかった。」 「ふうん。」  和樹は下着だけ穿いて、ベッドに乗る。涼矢がまたごろんと半回転して、和樹のほうを向いた。「ん。」と言って顎を上げた。 「何?」 「寝てる間のチューはカウントされません。」 「……ああ。」和樹は涼矢にキスをした。「おはよう。」 「やったね。」 「何が。」 「和樹のおはようのチューをゲット。」 「……今更?」 「嬉しい。」 「チューが?」 「うん。」 「あんなこととかこんなこととか、しておいて?」 「そう。あんなことこんなことより、おはチューが嬉しい。」 「なんで。」和樹は笑いながら、涼矢の隣に寝そべって、今度は頬にキスをした。 「だって、朝、一緒に起きた時だけだし。特別な感じ。」 「涼矢くん、時々死ぬほど可愛いな。」 「死ぬとか安易に使っちゃいけない。」 「今のは、強調表現だからいいの。」 「そうなの?」 「そうだよ。」和樹は反対側の頬と、耳たぶのピアスにもキスをした。その耳元で囁く。「涼矢、死ぬほど好き。」 「くすぐったっ。」セリフと共に吹きかけられた生温い息に、涼矢は身をよじる。 「今のは、言われて嫌な気分になった?」 「そんなわけない。」 「だろ。だからいいの。死ぬほどOK。」 「なんだか、いいように言いくるめられた気が。」そう言いながら、涼矢からも軽いキスをした。「シャワー、したんだよね?」 「した。あの風呂、あのままだけど、いいのかな。」 「流しておく。」涼矢は起き上がり、バスルームに向かった。その途中で、立ち止まる。「しまった。」 「何?」 「替えのパンツがない。」  和樹は笑う。「風呂入ったらパンツは替えたい派だもんな。」 「な、これで、俺が用意周到に計画してたわけじゃないって、分かっただろ? 計画的なら、この俺が替えのパンツを忘れるはずがない。」 「パンツが証拠かよ。」和樹は更に大笑いした。「もう、ノーパンで帰れよ。ズボン穿きゃ分かんないし。」 「もっとやだよ。」ぶつくさ言いながら、涼矢はバスルームに消えた。  10時までのチェックアウトタイムには間に合った。精算を済ませて外に出ると、夏の直射日光が暴力的に2人に注いだ。知り合いに会う確率は限りなく低いとは思いつつも、ホテルから出る時には多少緊張感を伴った。 「なんかさ、俺らの地元だと、ラブホは基本、車じゃない?」と和樹が言う。「まあ、俺は車では行ったことないけどさ。こんな風に歩いて出入りして、しかも出たらすぐ生活道路って、変な感じ。」 「少なくともこんな、住宅地の近くで、ビルが密集したとこにはないよな。」 「いつ知り合いに会ってもおかしくない。でもま、今のところは喫茶店のマスターぐらいだからなあ、地元の知り合いなんて。」 「モーニング……は、もう、終わりか。いや、終わってなくてもダメだ。」 「なんで?」 「こんなパンツで行くのは礼儀にかなっていない。」 「穿き替えてから行くか?」和樹は笑う。 「微妙に行きづらいんだよな。」涼矢は少し照れている。 「なんで? 泣いたから?」 「……もう少し遠まわしに言えよ。」 「変に間を空けるより、サクッと行ったほうがいいんじゃないの。」 「いや、やっぱいいよ。行くとしたら……そうだな、帰る日の前日とか。そのぐらいでいい。あそこ、ちょっと神聖な場所になっちゃったから。俺にとっては。」 「気にしなくていいと思うけどなあ。涼矢ジュニアにも会えるかもよ。」 「生まれたばっかりで、まだ外出できないんじゃないの。つか、俺のジュニアじゃないし、ホントに涼矢って名づけたのかも分かんないし。」 「会ってみたいなぁ。んで、俺、めっちゃあやすわ。涼矢くーん、よちよち、いいこでちゅねー、べろべろばーって。」 「俺の名前で遊ぶのやめて。」 「あちょんでないでちゅよー、ベビー涼矢くんとお話しする練習でちゅよー。」 「赤ちゃんプレイがしたいなら、ちゃんとリクエストしろよ。」 「うわ、ビッグ涼矢は言うことがエグイな。」 「介護の練習になっていいんじゃねえの。寝たきりのジジイになった時のためにも。おむつ替えとか。」 「おう、その時にはおまえのおむつを俺が替えてやるからな。」 「いや、俺がおまえのを替える。」 「寝たきりの俺にいかがわしいことをしそう。」 「ふ……ふふ……。」 「……俺、健康にはくれぐれも気をつけよう。」 「俺……医者目指せばよかったかな……。医学部受け直そうかな……。」 「やだ怖い、涼矢くん何考えてるの。泌尿器科とか肛門科とかやめてね。」 「……。」 「そういう時に黙るの、ホント悪い癖だから。」 「あ、でも。」 「何だよ。」 「和樹以外のケツは見たくねえからなあ。やっぱ医者はやめとくかな。」 「そういう理由? 医者志望の奴らに謝れや。」 「いや、医師に敬意があるからこそだ。俺はお医者さんごっこでいい。」 「俺はやらないぞ、その、ごっこ。」 「お医者さん役やってもいいよ?」 「麻酔無しで手術してやる。」 「たまんないよね。」 「おまえ本格的に気持ち悪い。」 「俺の評価として、面倒くさい、うっとうしい、気持ち悪い……だったら、気持ち悪い、が一番妥当な気がする。」 「全部妥当だよ。……俺の評価は?」 「カッコいい、優しい、可愛い、エロい。」 「……逆にズルイよね、そういうの。どうせ本当は馬鹿で天然でミーハーとか思ってるんだ。」 「馬鹿で天然でミーハーでエロいと思ってる。」 「なんか悔しい。つか、エロ必須か。」 「必須。和樹の半分はエロさでできています。」 「おまえもだっつの。」 「俺は気持ち悪さとエロさでできています。」 「最低だな。」  途中にパン屋があったので、朝食兼昼食にと、いくつかのパンを買いこんでから帰宅した。和樹にとっても、1人暮らしを始めてから初めての朝帰りだった。

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