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第909話 冬凪 (2)

 二人きりになると明生は菜月の名を出した。その明生の顔が一瞬華やぎ、ふわっと明るくなったように見えて、おや、と思う。菜月のことを持ち出すと「菜月なんか」とふてくされる態度を取っていたはずの明生なのに。 「菜月と仲直りしたんだ?」 「仲直りって……。別にケンカしてたわけじゃないし……。」明生は口籠もる。「それより先生、今月いっぱいでここ辞めるって本当ですか。」 「誰から聞いたの?」 「……受付の人。」 「もう、そういうの、言っちゃダメなんだけどな。」 「春期講習のパンフ見てたら都倉先生が載ってなかったから、僕から聞いたんです。そしたら春期講習は担当しないって言うし、じゃあ新学期は中三受け持ってくれるのかなって言ったら困った顔するから、もしかして先生辞めちゃうのかなって思って……。ごめんなさい、僕、『先生が辞めるかもしれないって言ってたのは本当なんですね』なんてカマかけちゃいました。そしたら、知ってたの?って。あっ、でも、僕、誰にも言いませんから。」  明生の観察眼の鋭さをうっかり失念していた。そうだ、明生は案外と人の表情を読み取るし、話を引き出すのが上手い。菊池のようなタイプでは嘘はつけないだろう。 「明生の口の固さは知ってるよ。」 「僕のせい、とかじゃないですよね。」 「なんで明生のせい?」和樹は笑った。「単純に、就活。そろそろ忙しくなるから。」 「先生になるんですか?」 「うーん。どうかな。一応教職は取ってるけど、まだ絶対それとは決めてない。」 「ふふっ。」  明生が嬉しそうに笑う。 「なんで笑う? 俺に先生なんか無理って?」 「違いますよ。先生は、先生にぴったりだと思います。今のは、なんか、嬉しかったから。僕相手に、普通に将来の仕事のこととか、話してくれて。」 「将来、か。」 「え? 僕、変なこと言った?」 「ううん。」和樹は明生のつむじを見下ろす。去年より随分と背が伸びた明生とは言え、まだそれぐらいの身長差はあった。その差が互いの「将来」の距離感の差でもあるように感じる。明生の言う将来は夢溢れる遠い未来だけれど、和樹にとっては現在のちょっと先に過ぎない。「明生は将来、何になりたいの。高専行って、それから?」 「だから、高専と決めたわけじゃないですってば。僕は……分かんないです。高専はおもしろそうだと思ったけど、入るの難しいし、入ってからもすごく大変だって聞いてるし。それに、動物に関わる仕事もしてみたい。」 「獣医さん?」 「うーん、動物園の飼育員のほうがいいな。獣医さんは、病気の子や怪我した子を診なきゃならないでしょ、そういうのは辛いから。あっ、もちろん、すっごく大事な仕事なんだけど、僕には荷が重いっていうか。」明生の大人びた配慮と口調に、和樹はまた唸らされる。 「そうか、明生、動物好きなんだもんな。あっ、そうだ、明生んちの猫。」 「茶々ですか。元気ですよ。」 「よかった。」 「涼矢さんにはたまに写真送ってるから、気になるなら見せてもらってください。」 「え。」 「きっとびっくりしますよ。」 「何に?」 「うちの猫。」 「なんで?」 「涼矢さんに聞いて。」  ちょうどそこで駅に着いた。明生はこのまま徒歩で、和樹は電車に乗る。 「じゃあ先生、さよなら。僕、こっちだから。」 「あ、ああ。うん、さよなら。気を付けて帰れよ。」 「はーい。」  明生が無事に横断歩道を渡り終えたのを見届けて、和樹は改札口へと向かった。  明生の言っていた「びっくりすること」はすぐに判明した。 「茶々が産んだ……わけじゃないよな? おばあちゃん猫だって言ってたし、柄も違う。」  涼矢に転送してもらった写真には、茶々に寄り添う、茶々より少し小柄な猫が写っていた。 ――うん、譲渡会でもらってきたって言ってたよ。茶々も保護猫だったんだろ? 「ハチワレか。可愛いな。」 ――ハチワレ? 「顔の黒いとこが真ん中で八の字型に分かれてるだろ。そういう模様の猫のこと。」 ――ああ、八の字に割れてるから、ハチワレか。 「そう。」 ――猫飼いたくなった? 「なった。誕プレにリクエストしたいところだけど、ここじゃ飼えないしなあ。」 ――家買う時に、オプションでつけてやろうか? 「涼矢くん、お願いしますって土下座しなきゃならねんだろ? やだよ。」 ――土下座しろなんて言ってない。可愛くおねだりしてくれればいい。 「だったら土下座のがマシだわ。つか、どっちもしねえよ。」  ははっという笑い声が聞こえてくる。 「だいたいさ、自分のことだってろくにこなせてないのに、ペット飼う資格なんかないんだよ、今の俺には。」 ――おや、殊勝。 「ついでに何かとめんどくさい奴もいるしな。」 ――そりゃ大変だね。 「棒読みすんな。」 ――俺はめんどくさいかもしれないけど、手間はかからないだろ? 手間かかるどころか便利だろ? 何も言わなくたってメシ作るし、掃除も、洗濯も。猫よりは役に立ってるだろ? 「そうね、それはね。でも、猫は可愛いから。」 ――え、可愛いだけで全部相殺されんの? 「されるだろ。当然だろ。」

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