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第146話 僕らの事情(5)

 和樹は反射的に後ろを向く。そんなことをしても自分のうなじが見えるわけがないのに。「あ、合わせ鏡とかにすれば。」 「そうだね。でも和樹んち、鏡ひとつしかないよ。」 「スマホでっ、写真撮ればっ。」 「……うん、別にいいけど、なんでそんな必死に見たいわけ?」涼矢はくすくすと笑った。 「お、おまえが気になる言い方するから、見たくなるんだろうがっ。」和樹は悔しそうだ。 「写真、俺が撮ってやろうか?」 「いいよ、別にっ。」 「そう? ついでに、例のホクロも撮ってあげようと思ったのに。」足の付け根のきわどい場所にあるホクロ。和樹自身にも見えない。和樹の両脚を広げ、そこに顔を近づけた者にしか、見えない。 「要らねえよ、馬鹿。スケベ。エロ涼矢。」  涼矢は和樹の腰に手を回した。「覚えててくれたんだ、ホクロのこと。」 「うっせ。」和樹は涼矢の手を振りほどこうとするが、所詮「振りほどこうとするポーズ」に過ぎない。涼矢は和樹と向き合う姿勢になって、和樹の腰の手をぐいっと自分に引き寄せたから、逆に2人の身体はさっきよりも密着することになった。 「あのホクロのとこにもマーキングしたいな。」 「いいよ。」強がる和樹。「そしたら、それも哲に見せてやるからな、ファミレスで、ご開帳して。」 「すっげえ最高。」涼矢は笑った。和樹の虚勢はあまりにも見え透いて、嫉妬の対象にはならなかったようだ。涼矢は腰に回していた手を背中と後頭部へと移動させ、和樹の全身をがっしりとホールドした。更に後頭部の手で、和樹の頭を自分の頬に押さえつけるようにする。涼矢の口元がちょうど和樹の耳だ。和樹が身動きできないのを承知で囁いた。「和樹、大好きだもんねえ、恥ずかしいところ、見られるの。」 「ふざけっ……。」身体をはがそうとするのを、涼矢は許さない。 「和樹の一番可愛いところ、哲にもみんなにも見せてあげたいんだけどねえ。」涼矢は和樹の顔のラインに沿ってごく軽いキスを繰り返した。「でもやっぱり、嫌だな。俺だけに見せて。」そう言った瞬間に、和樹の身体がビクンとわずかに震えた。密着している涼矢にもその震えが伝わってしまっているのは明らかで、そのことが和樹をより過敏にさせた。耳たぶまで赤くしている和樹に、なおも涼矢は囁き続ける。「なんて顔してんの。そんなエロい顔も見せたらダメだよ。」 「エ、エロい顔なんてしてないっつの。」和樹は顔を見られたくなくてうつむくが、すぐにその顎を涼矢に引き上げられる。 「この顔がエロくなかったら何がエロいんだよ。」涼矢は顎の手を自分の顔を引き寄せる。和樹は条件反射のようにまぶたを閉じて、キスを待つ。だが、触れていなくても涼矢の体温が感じられるほど近づいたのに、唇が触れ合わない。和樹は目を開けた。すぐ目の前には、ちゃんと涼矢の顔がある。何が起きたのか理解できずに戸惑っていると、涼矢がニヤリと笑った。「キスしてほしい?」  今度こそ本気で、涼矢を押しのけた。涼矢もさすがに腕を離し、一歩退いた。 「ごめん、ふざけすぎた。」涼矢は大して悪いとは思ってなさそうに言った。もっとも、深刻に謝られたほうが気まずい状況ではあった。  和樹のほうもそこまで怒っているわけではないが、多少大袈裟に不貞腐れてみせた。無言でベッドに腰掛ける。 「ごめんて。」もう一度軽い口調で涼矢が言う。  和樹はふと悪戯心が湧きあがり、腰掛けたまま右足を上げた。「舐めろよ、犬。」素足のつま先をピンと伸ばしている。  涼矢は眉をぴくりと上げて、驚いた。それから、ふっ、と笑った。前髪をかきあげながら和樹に近寄り、その前に膝をつくとすぐ、和樹のつま先を口に入れるべく、大きく口を開けてそこに顔を近づけた。  ひるんだのは和樹のほうだ。涼矢の熱い息がかかった瞬間、足を下げた。「てめ、ためらいとかねえのかよっ。」  涼矢は膝をついたまま、ベッドに腰掛ける和樹を見上げた。「なんで?」和樹を挑発するわけでもなく、素朴な疑問、という調子で言う。 「なんでじゃねえよ、少しはこう、プライドっつうか……。」  涼矢はもう和樹の言葉に答える気はないようだった。  床に下ろされた和樹の足。涼矢は右手でその足首を、左手でかかとを持って、まるでシンデレラにガラスの靴を履かせるかの如く、うやうやしく持ち上げた。それから、何事もなかったのようにさっきの続きを再開させた。和樹がもう一度その足を引っ込めようとしても、足首とかかとをホールドしている力は案外強くて、涼矢の行為が中断されることはなかった。和樹も押し黙ったままで、ただ、ピチャピチャと舐める音が部屋に響いた。 「……つぅっ。」と和樹が呟いた。痛みなどあるはずがない。痛々しいのは涼矢だ。何の非もないのに、跪いて他人の足先を舐めるこの男の考えていることが分からない。しかも、その行為にマゾヒスティックな悦びを感じている様子もない。たまに埃か髪の毛でも舌に触れたのか、嫌そうな顔で自分の腕に口をこすり付け、何かを拭う。シャワーは済ませたが、フローリングの床を歩き回った素足だ、そういった汚れは避けられない。それでも、それからまた足を咥えることについては嫌がるそぶりはないのだ。当たり前の作業のように、淡々とそれをする。

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