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第914話 冬凪 (7)

――紙切れ一枚がなんなんだって思うけど、紙切れ一枚でうまくいくことがあるなら、そうしたい。  手術と入院を経て、思うところがあったらしい。もちろん自分だってそれは考えていた。ただ、今じゃないと思っていた。お互い就職して、二人で暮らせるようになったら、と。そうやって先伸ばしにしているうちに物事をややこしくしてしまうのは自分の悪い癖だ。気が付けば自分より後から知識を得たはずの和樹のほうが先を歩いている。  いつもそうだ。  和樹はいつだって軽やかで。迷子になる俺を導いてくれる。 ――方向音痴のクセにな。  涼矢は、駅はどっちだっけとキョロキョロする和樹を思い浮かべて、ひとりで笑った。  虫の報せでもあったのか、その途端に和樹からの定例のメッセージが届いた。いつものようにコールバックしようと通話に切り替えながら、発信先の「和樹」の文字にさっきの迷子の和樹を連想して、また笑ってしまう。 ――なんでいきなり笑ってんの。誰かいる? 「いないよ、一人。俺の部屋。」 ――なに、おもしろい動画でも見てた? 「ううん、ただの思い出し笑い。」 ――不気味な奴だな。 「和樹が迷子になるとこ思い出してた。」 ――迷子になんかなってねえし。 「でも方向音痴だろ。」 ――スマホのマップ見ればたどりつける。 「や、それは当たり前だから。そんな偉そうに言うもんでもないから。」 ――偉そうには言ってねえよ。 「和樹は車の運転しないほうがいいかもな。知らないうちに高速乗ってとんでもないとこにたどりつきそう。」 ――さすがにそれはないだろ。だいたい、ナビあるだろ、ナビ。 「あれもたまに嘘つくから。」 ――マジか。 「マジだよ。ま、運転なら俺がやってやるから安心しろ。」 ――おまえの運転こそ危ない。気が付いたらラブホに連れ込まれてそう。」 「俺をなんだと思ってんの。」 ――マイスイートダーリン。 「それならラブホで正解じゃないか。」  和樹の笑い声が聞こえた。 「ああ、そうだ和樹。日程決まったから。連休の中日。親父さえOKならそれで決まり。」 ――了解。アリスさんところだよな。 「うん。」 ――一応スーツ、なんだよな? 例の一張羅しかねえけど。 「俺の貸そうか。持ってくるの面倒だろ。」 ――おまえは何を着るんだよ。 「別のスーツ。」 ――そんなに何着も持ってんの。 「何着もはない。元々持ってたやつがちょっと小さくなったから、成人式用に新しく作っただけ。」 ――オーダースーツかよ。さすが坊ちゃん。 「セミオーダーだよ。前のは高校に入る頃に作ったから、今の和樹にちょうどいいぐらいじゃないかな。」 ――どうせ俺はチビだよ。  和樹はわざとすねた声を出した。 「おまえのどこがチビだ。」 ――あーあ、涼矢よりでかくなりたかったな。 「諦めんな。二十歳過ぎても伸びる人はいる。」 ――自分のほうがデカいから言えるんだっての。 「俺は別に和樹より低くたって。」 ――嫌じゃない? 「……。」涼矢は腕の中にいるときの和樹のサイズ感を思い出そうとする。「嫌じゃないけど……今がベストかな。」 ――ほれ見ろ。 「でも、もし和樹が何かの弾みで俺よりデカくなったら、それがベストだって言うよ。」 ――ふうん。 「なんだよ、疑ってんのか。」 ――疑っちゃいない。どっちかつうと本気でそういうこと言いそうでちょっと引いた。 「何故引く。」 ――なんとなく。涼矢くんの愛ってたまに重いっていうか。いや、いいんだけど。全然問題ないけど。 「和樹は俺がもっと小さくて可愛げがあったらよかった?」 ――そうは思わねえよ。可愛げのあるおまえなんか、もはやおまえじゃないだろうが。 「俺だってそうだよ。今の状態の和樹が和樹なんだから、それがベストって話。」 ――ああそう……。まぁいいや。 「納得してなさそう。」 ――してるって。でさ、スーツはいいよ。なんとかするから。佐江子さんたちのお祝いに涼矢のお下がり着て行くのも変だろ。 「そうかな。」 ――そうだよ。息子のために仕立てたスーツをちゃっかり着てるような奴に、息子は任せらんねえだろ。  任せるも何も、俺は親の所有物じゃないし、俺たちはお互い対等じゃないか。そう言い返しそうになって、その言葉を飲み込んだ。――あなたが思っているより、彼は大きな、強い覚悟をして来ると思うよ。佐江子に言われた言葉の意味を、ようやく理解できた気がした。 「……分かった。ちなみに、おふくろは歓迎するって言ってたから。」 ――俺を? 「うん。来てくれるなら嬉しいって。だから、えっと、心配も緊張もしなくていいから。って、してないか。」 ――馬鹿、してるわ。今から緊張で腹痛えっつの。 「なんかごめん。」 ――謝ることでもねえだろ。 「じゃあ、ありがと。」 ――お、おう。ま、幻滅されないように頑張りますよ。 「和樹なら大丈夫だよ。」 ――余計なプレッシャーかけんなって。  和樹はそう言って笑い、涼矢も笑った。笑いながら、これは和樹の本音なのだろう、と思った。

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